はしたないと婚約破棄された刺繍令嬢ですが、私の針は魔力を正確に定着させる唯一の技術でした 〜森で拾った精霊王様の傷を繕ったら、永遠に離してもらえません〜
「そのような刺繍如きに魔力を込めるな、何度言えばわかるのか?」
ヴァイセンベルク侯爵家の夜会の広間に、グレゴールの声が響いた。
シャンデリアの灯りが、磨き上げられた石の床に反射している。
楽団の音は、いつの間にか止んでいた。
エーレンフェルト伯爵家のひとり娘、クラーラは、手にしていた扇をそっと閉じた。
「…ですがグレゴール様、これもグレゴール様の身の安全やご活躍を祈ってのもので…」
「侯爵家の御子息に、よくも逆らえるものね」
扇の陰から、誰かの囁きが漏れ聞こえた。
三年前に決まったこの婚約は、家格で劣るエーレンフェルト家の側から断れる話ではなかった。
指先に、針だこが触れる。
何百、何千と針を持ってきた指の、硬く小さな積み重ねてきた膨らみだ。
「はしたない真似はやめろと、何度も言ったはずだ」
「わたくしの刺繍は、遊びではございません。魔力を定着させる、確かな技術です」
「技術と呼べるものか。国境の魔物の侵食は、年々増している。剣も盾も持たぬ嫁など、侯爵家に迎える価値はないし、私の隣に置く価値もない。はぁ、この婚約を決めたお父様は何を考えていたのか…」
グレゴールの声には、苛立ちよりも、優越の色が滲んでいた。
彼はいつも、そういう声で話す。きっと、私のことを見下しているのだろう。
出会った頃はそれを頼もしさだと思っていたことを、クラーラは今更のように思い出していた。
三年という月日が、どれほど自分の目を曇らせていたのだろう。
グレゴールの隣には、腕を組んだ美しい令嬢が立っていた。
名も知らぬその人は、戦闘魔術の名手だと聞く。
腕には、返り血を浴びた戦装束さながらの刺繡の入った外套。
グレゴールが選んだのは、剣のように役に立つ女だった。
その見知らぬ女は、グレゴールの隣で私を見下すように笑っていた。
「はあ……。お前との婚約は、ここで終わりにする。エーレンフェルト家には、後日正式に通達しよう」
広間がざわめく。
誰かが息を呑む音がした。扇の陰で、囁き交わす声がいくつも重なる。
だが誰も、クラーラに味方する声は上げなかった。
クラーラは、何も言わなかった。
言葉を重ねても、届かないことは分かっていた。
三年、隣にいて、それだけはわかっていた。
この婚約は大人の策略のための婚約、クラーラたちの間には感情など始めからなかったのだ。
「…わかりました。では、これ以降は書面の方でご連絡を」
ただ深く頭を下げ、静かに広間を後にした。
背にグレゴールの視線を感じたが、振り返らなかった。
馬車に揺られる間、涙は出なかった。
窓の外を流れていく王都の灯りを、ただ眺めていた。
エーレンフェルト家は、この一件に抗議すらしないだろう。
侯爵家を敵に回せるほどの力は、もう伯爵家には残っていない。
代わりに、母の形見である銀の針を、指先でそっと握りしめていた。
冷たい金属の感触が、じわりと手のひらに馴染んでいく。
この針だけが、これまでもこれからも、クラーラの言葉を聞いてくれる。
三日後、クラーラは辺境の静寂の森の近くに追いやられていた。
エーレンフェルト家の名を出さずに暮らせる、小さな家がそこにはあった。
お父様は最善を尽くしてくれたようで、ここで誰にも見つからず、社交界からは消え、静かに暮らすしか私にはなかった。
屋根は傾き、庭には雑草が伸び放題だったけれど、ここは誰も邪魔をしない自由な場所だった。
荷物を運び込みながら、クラーラは持参した反物と糸束を丁寧に並べた。
これだけあれば、当分は暮らしていける。
王都で身につけた作法も、社交の駆け引きも、この土地では何の役にも立たない。
だけど針と糸だけは、どこへ行っても手放さなかった。
森は、名前の通り静かだった。鳥の声すら少ない。
木々の間を抜ける風の音だけが、絶え間なく耳に届く。
薪を探して森の奥へ踏み込んだクラーラは、倒木の陰に、人のような影が横たわっているのを見つけた。
近づくと、それは深い傷を負った男だった。
白銀の髪が土に汚れ、右腕から胸にかけて、古い傷跡と新しい傷が幾重にも重なっている。
羽織っていた外套は、裂けてぼろぼろになっていた。苔と血の匂いが、鼻先をかすめる。
倒木の陰は薄暗く、木漏れ日が一筋、男の顔を照らしていた。
整いすぎた顔立ちが、かえって現実味を失わせる。
人ならざる者であることは、一目で分かった。
意識はないようだったが、息はある。かすかに上下する胸を見て、クラーラは膝をついた。
「大丈夫ですか、私の声は聞こえますか?」
返事はない。クラーラは迷わず、いつも持ち歩いている針箱を取り出した。
傷そのものに触れる技術は持たないし、医術の心得もない。
だができることはある、いや、しなければ。
裂けた外套の布地に、魔力を込めた刺繍を走らせ、傷を覆うように当てた。
一針、また一針。
指先が冷えていくのも構わず、糸を通し続けた。
魔力が糸を伝い、布地に染み込んでいく。傷口の上で、ほのかな光が灯った。
男の呼吸が少しずつゆっくりになり、深くなっていく。
強張っていた肩から、力が抜けていくのが分かった。
しばらくして、金色の瞳がゆっくりと開いた。
「……何を、した」
そこから出てきたのは、生気の無いかすれた声だった。
クラーラは手を止めずに答えた。
「傷そのものは治せていません。ただ、外套に治癒の力を定着させただけです、その場しのぎの処置ですから、この後お医者様の正式な施術を受けてください。」
男は自分の身体を見下ろし、それから外套の刺繍を見た。
触れかけて、指を止めた。
「これは、人の技ではない…君は何者だ?」
「わたくしの刺繍です。信じていただけなくても構いません」
男は何かを言おうとしてやめ、しばらく黙っていた。
灰色がかった空を見上げ、それからようやく口を開いた。
「…名は」
「クラーラと申します」
「俺は、ヴァルドだ」
それだけを名乗ると、ヴァルドはまた目を閉じた。
眠っているのではなく、ただ言葉を探しあぐねているようだった。
クラーラは、その横顔にしばらく座り込んだまま、日が傾くのを見ていた。
なぜここで倒れていたのか、なぜこれほどの傷を負っていたのか。
聞けば答えてくれるのかもしれない。それでも、聞かないことにした。
答えを急かされることの息苦しさは、自分がよく知っていた。
それからクラーラは毎日、ヴァルドがいる森の奥地へ通った。
初日は、薬草を煎じただけで終わった。
二日目、クラーラは硬いパンを二つに割って分け合った。ヴァルドは受け取ったパンを、しばらく見つめてから、ゆっくりと口に運んだ。
人の食べ物を口にするのが久しぶりであるかのように。
三日目になると、ヴァルドは自力で上体を起こせるようになっていた。クラーラは針箱を膝に乗せ、裂けた外套の続きを繕い始めた。
「なぜ、毎日来るのか」
「他に行く場所も、することもありませんので」
「森は退屈だろう」
「退屈だと思ったことは、ありません」
そう答えると、ヴァルドは少し意外そうな顔をした。
それから、また黙って空を見上げた。
針を動かす間、二人の間に会話はほとんどなかったが、その沈黙は不思議と重くなかった。
木漏れ日が布地の上を移ろい、風が枯葉を巻き上げては、また静かに落とす。
ヴァルドは多くを語らなかったが、クラーラが針を動かす手元を、いつも黙って見ていた。
「その手つきは、熟練されているな。一体いつから学んだのだ?」
ある日、焚き火の向こうから、ヴァルドがぽつりと尋ねた。
「物心ついた頃からです。母に習いました」
「見ていて、飽きないな」
短い言葉だったが、クラーラの胸に、じんわりと染み込んでいった。
婚約者に見下され続けた技術を、飽きないと言われたのは初めてだった。
頬が少し熱くなるのを感じて、クラーラは俯き、針先に視線を落とした。
「…見られていると、少し落ち着きません」
「なら、目を閉じておこう」
そう言って、ヴァルドは本当に目を閉じた。
その仕草がおかしくて、クラーラは久しぶりに小さく笑った。
翌週、雨の日が続いた。小さな家の屋根は古く、雨漏りがひどかった。
桶で水を受けながら、クラーラは眠れない夜を過ごした。
朝になって様子を見に来たヴァルドは、屋根を見上げ、軽く手をかざした。
淡い光が屋根の傷んだ部分を包み、朽ちかけていた木材が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。
術を使った直後、ヴァルドの膝が僅かに揺らいだ。クラーラは慌てて肩を支えた。
「無理をなさらないでください」
「これしきで、無理とは言わないさ」
そう言いながらも、ヴァルドはクラーラの支えに、素直に体重を預けていた。
その重みが、思いのほか温かかった。
しばらくして呼吸が整うと、ヴァルドは小さく息を吐いた。
「これは…精霊の、力ですか」
「大したものではない。長く使わずにいたから、鈍っているが」
それでも、たった数分でクラーラの家は雨漏りひとつしない屋根を取り戻していた。人の技では到底なし得ない業だった。
「森の外に出ても、平気なのですか」
「まだ、遠くまでは無理だ。だが、これくらいはできる」
ヴァルドの言葉には、静かな誇らしさが滲んでいた。
誰かの役に立てたことが、久しぶりだったのかもしれない。
クラーラは、彼のその横顔を見ながら、自分の胸の内に芽生えたものの名前を、まだ知らずにいた。
森を渡る風が、二人の間を抜けていく。
数日後、旅の行商人が、森の外れの家に立ち寄った。
薬草と引き換えに一晩の宿を求める行商人に、クラーラは夕食を振る舞った。
行商人は礼のつもりか、エーレンフェルト領の噂話を、世間話のついでに聞かせてくれた。
「グレゴール様の新しい婚約者殿は、戦の場では強いが、繊細な儀礼の場では勝手が違うようでね。先日の外交の夜会で、贈り物の作法を誤って、隣国の使者をひどく怒らせたとか。あの前の婚約者…刺繍の心得がある者なら、あんな失礼はしなかっただろうにと、陰口を叩かれているそうですよ」
クラーラは、静かに相槌を打っただけだった。
かつての自分がいた場所の話は、もう遠いものに感じられた。
腹立たしさも、溜飲が下がる感覚もない。
胸の奥を探ってみても、波立つものは見当たらなかった。
ただ、自分の技術を「飾り」と切り捨てた者たちの結末を、他人事として聞いていた。
行商人が去った後、隣に座っていたヴァルドが口を開いた。
「怒らないのか」
「怒る力さえ、もう向ける先がありません。ここでの暮らしの方が、よほど大事ですから」
言ってから、それが本心だと自分でも気づいた。そういいながら針を持つ指に、視線を落とす。
「あの場所にいた頃は、誰かに認められたい気持ちばかりでした。刺繍の腕を磨けば、いつか役に立つと信じて、朝も夜も針を持っていました。今は、それすらどうでもよくなっています」
言葉にして、クラーラは自分でも少し驚いた。
あれほど長く抱えていた焦りが、いつの間にか薄れている。
ヴァルドは、じっとクラーラを見つめていた。
焚き火の光が、金色の瞳に揺れている。
「向ける先を失ったのではない。向ける先を、選び直しただけだ」
その言葉に、クラーラは目を瞬かせた。
誰かにそう言われたのは、初めてだった。
「あなたも、そうだったのですか」
「……そうかもしれない」
ヴァルドは、火の粉が舞い上がるのをしばらく眺めていた。
「かつて向けていた先が、俺を裏切った。長い間、それを恨むことに力を使っていた」
「今は」
「今は、恨む力さえ、別のものに使いたいと思っている」
ヴァルドの視線が、クラーラの手元へ落ちた。
繕いかけの外套の上で、糸が小さく揺れている。
それ以上、二人とも言葉を継がなかった。
焚き火の音だけが、しばらく静けさを埋めていた。
その夜、ヴァルドは自分の外套を脱ぎ、クラーラの前に差し出した。
焚き火の炎が、裂け目の繕われた布地を照らしている。
「繕ってくれ。今度は、傷のためではなく」
「それは…どういう意味でしょうか」
「お前の技を、俺のために使ってほしい」
クラーラは針を取った。
傷を覆うためではなく、ただ贈るための刺繍を、外套の襟元に静かに縫い込んでいく。
星をかたどった小さな模様を、一つ、また一つ。
魔力を多く込める必要はなかったが、それでも一針ごとに、心を込めた。
出来上がった外套を、ヴァルドは羽織った。
襟元の刺繍に、そっと指を這わせる。
「この森に封じられてから、誰かに何かをしてもらったのは初めてだ」
「…なぜ封じられていたのですか?」
尋ねてから、クラーラは小さく首を振った。
「……いいえ、お答えいただかなくて構いません」
ヴァルドは、微かに笑ったようだった。
目元の傷が、その拍子にわずかに動く。
「いつか、離せるようになったらすべてを話そう。今はまだ、こうしていたい」
大きな手が、クラーラの手をそっと包んだ。
針だこのある指先を、確かめるようになぞる。骨ばった指の感触に、クラーラの心臓が跳ねた。
「その手が、俺の孤独を繕ってくれた」
かつて婚約者だった男は、この手を「飾りにしか使えない」と笑った。
だが今、この手をこれほど大切そうに包んでくれる人がいる。
誰かに与えられる価値と、誰かに切り捨てられる価値は、こんなにも違うものなのだと、クラーラは初めて知った。
同じ手で、同じ針を握っているだけなのに。
見る者が変われば、それはこんなにも違う光を放つ。
「わたくしの技術は、誰かのために使われたことなど、これまでほとんどありませんでした」
「なら、これからは俺のために使えばいい。飽きるまで、いくらでも」
冗談めかした声に、クラーラはようやく肩の力を抜いて笑った。
笑うことが、こんなに軽いものだと、久しく忘れていた。
「わたくし、王都に戻るつもりはありません。この森で、これからも針を持ちたいと思っています」
「なら、俺もここにいよう。お前の隣で見ていたいものが、まだたくさんある」
ヴァルドは、クラーラの手から針箱を取ると、自らその手に一本の糸を通した。
銀色だった糸が、彼の指を通る間に、淡い金の光を帯びていく。
だがその手が、微かに震えているのにクラーラは気づいた。
「精霊の契りは、言葉ではなく、糸で結ぶ。人の婚礼とは違うが……受けてくれるか」
「それは…どうすればよいのですか」
「お前の手のひらと、俺の手のひらを、この糸で一度だけ結ぶ。それだけだ」
言いながら、ヴァルドは一瞬、言葉を切った。
「ただ、正直に言っておく。この契りは、まだ癒えきっていない俺の力の残りを、根こそぎ持っていく。うまくいけば、しばらく動けなくなる程度で済む。悪くすれば、封印で弱った芯が保たず、二度と目覚めないかもしれない」
「そんな危険を冒す必要はありません」
クラーラは、思わず針を持つ手を引いた。
「わたくしは、今のままで十分です。契りなどなくても、あなたの隣にいられれば…」
「俺が十分ではない」
ヴァルドの声は、静かだが揺るがなかった。
「三百年、誰にも見つけられず、誰にも求められず、ただ朽ちるのを待っていた。お前が現れてから、俺は初めて、朽ちたくないと思った。この賭けを、俺自身が望んでいる」
「もし、目覚めなかったら」
「そのときは、その糸がお前を守る。俺の力の残りごと、お前に譲る形になるだけだ」
クラーラは、しばらく黙っていた。
焚き火が爆ぜる音だけが、静寂を埋めていく。
やがて、震える指先で、差し出された糸をそっと握った。
「……分かりました。でしたら、わたくしも覚悟を決めます」
ヴァルドは、二人の手のひらを重ね合わせ、その上から金の糸を幾重にも巻きつけていった。
糸が皮膚に触れるたび、ちりちりと小さな熱が走る。
巻きつけが進むにつれ、ヴァルドの顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……ヴァルド様」
「まだ、終わっていない」
最後の一巻きを終えた瞬間、ヴァルドの体がぐらりと傾いだ。
クラーラは咄嗟に彼の体を支え、崩れ落ちるのをどうにか食い止めた。
糸は淡い光とともに溶けるように消え、代わりに、互いの手のひらに小さな金色の印が浮かび上がっている。
「ヴァルド様、しっかりしてください」
呼びかける声に、しばらく返事はなかった。
心臓が凍りつくような数秒が過ぎ、ようやくヴァルドの瞼がゆっくりと開いた。
「……大丈夫だ、なんとか成功したようだな」
安堵に、クラーラの目から初めて涙がこぼれた。
追放されてからずっと堪えていた涙が、ここでようやく落ちた。
「これで、離れることはない。俺の力が尽きるまで、いや、尽きても尚、この印はお前を守り続ける」
「一度結んだら、二度と解けないのですか?」
「解こうとした者はいない。俺自身も、解きたいと思わないさ」
クラーラは、手のひらに残った印をそっと撫でた。
針だこと並んで、もう一つ、消えない証が刻まれている。
命を賭けてまで結ばれた証だと思うと、その重みが違って感じられた。
「王都では、こんな儀式は知りませんでした」
「王都の婚礼は誓いの言葉が要るのだろう?精霊の契りは、誓いより先に、証を刻む。言葉は後からいくらでも足せばいいさ」
「分かりました、ではこれからも、あなたの傍で針を持たせてください」
「ああ。永遠に、俺の傍で」
炎に照らされたヴァルドの横顔は、出会った日の傷だらけの姿とはまるで違って見えた。今はただ、穏やかな光をまとっているだけだった。
言葉は多くなかった。
それでも、手のひらの印と同じだけ、確かなものが、クラーラの胸に刻まれていた。
静寂の森に、夜風が渡っていく。
焚き火の煙が、星空へとまっすぐに立ち上っていった。梢の隙間から覗く星々が、いつもより近く感じられた。
刺繍如きと切り捨てられた技術が、ここでは精霊王をも繋ぎ止める契りの糸になっていた。王都で価値を測られた物差しなど、もうどうでもよかった。
クラーラは、金色の印が浮かぶ手を、そっと握り返した。
それは、永遠にほどけない約束だった。
【完】




