ガチの聖女が王妃になったあと
ジャクリーヌは、大貴族の娘として生まれ、十八歳でブロー王国の王妃となった。
その立場は揺るぎないものだと思われていたが、ある日突然状況が変わった。
「王妃よ、離婚してくれ」
彼女の夫である若き王ルイが、癒しの聖女を王妃にしたいと言い出したのだ。
毎日同じ服を着て神に祈り、人々の病気や怪我を癒し、奉仕と清貧を重んじる聖女ヴァレリーを。
「ヴァレリーは不治の病に侵された母上を救ってくれた。私と母上の恩人なのだ」
「恩人だからと言って王妃にするなんて。他の方法でお礼をすればいいではありませんか」
「ヴァレリーは花束も宝石もドレスも喜ばない。金すらもだ。自分に何かを贈るのなら、代わりに民に施してくれと言う女性だ。君とは全然違う」
国王は胸の前できゅっと手を握る。その仕草に「ああ、恩どうこうではない」と王妃は悟った。
愛なのだ。
国王は聖女を抱き寄せる。
「それにヴァレリーは国民から敬愛されている。大貴族の娘で贅沢を好み、なんでも金で解決する君とは違って、愛のために生きているからだ。君ではなく彼女が王妃になれば、この国はもっと良くなる。私自身も、もっといい自分になれると思うんだ」
聖女を褒めているようで、王妃をけなす言葉。
王妃の胸を、刺すような痛みが襲う。
政略結婚だが、夫を愛していないわけではなかったのだと、今さら気づく。
それでも王妃という立場にある者が、「愛しているから捨てないでくれ」とは縋れない。
「どうかご再考を、陛下。聖女様に王妃は務まりません。聖女様は確かに立派な方ですが、聖女と王妃では求められるものが違います」
聖女は農民の出で、妃教育どころか読み書きすらおぼつかない。
しかし聖女は「王妃様のおっしゃる通りです。しかし私はこの国と神のため、懸命に努力する所存です」と両手を胸の前で組んだ。
揺るぎない自信に溢れた、美しいピンク色の瞳。
「国王陛下からこのようなお申し出をいただいたのも、神の愛でこの国を満たせという、神の思し召し。それに神は愛する者にこそ、苦難をお与えになります。神が与えてくださる試練であれば、私は喜んでそれを受け入れるつもりです」
「私も同じ覚悟だ、王妃。それが私からヴァレリーへの愛なのだ」
国王は、それきり王妃と話をしようともしなかった。
神殿は「血縁者同士の結婚だったから」とあっさり婚姻無効を認め、王妃ジャクリーヌは結婚からたった一年で廃妃となり、王宮から領地へと戻された。
「私が悪かったのですか?私のどこが悪かったのですか?贅沢をしすぎた?高慢だった?」
「お前は悪くない。お前が開くパーティーは憧れの的だったし、芸術保護や福祉にも心を砕いてきたではないか」
「お父様、でも私は捨てられました…!」
「国王が愚かなだけだ」
そしてジャクリーヌの父は、彼女に隣国の公爵との婚約を促した。
「ダーンリー公フィリップ様ですか」
「この国を出て、愚かな国王のことは忘れなさい。今度こそ幸せになってくれ」
「ありがとうございます、お父様」
◆
ジャクリーヌは再婚して、新しい夫が治める土地へ移った。
「ジャクリーヌ、ようこそダーンリーへ」
「フィリップ様、どうぞよろしくお願いいたします」
「堅苦しくしないで、フィリップと呼んでほしい」
新しい夫は妻となった廃妃を丁重に扱い、仕事を任せた。
人望のある領主が妻を大切に扱えば、使用人や領民たちも妻に敬意を払う。だからジャクリーヌも、持てる力を彼らのために振るう。
「何より嬉しいのが何かわかる?フィリップ」
「何だい?」
「フィリップが私の言葉に耳を傾け、疑問に思ったことは聞いてくれ、理解できるまで対話してくれることよ」
フィリップが「そんなに特別なことかな」と首をかしげるほど、二人にとってはそれが常だった。
「橋については、安全性を優先すべきです」
「しかしあまりに経費がかさむと他のところに回す予算が…」
「経費を抑えながら安全性を確保できる工法がないか、調べてみませんか」
「この投資は、出資金がまるまる返ってこない可能性も」
「しかし期待できる利益は魅力的だろう」
「せめて出資金の額を減らして…」
対話を重ねてもすべての考えが完全に一致するわけではない。けれど少しずつ折り合いをつけていくのは、有意義な時間だ。それが領地や公爵家の繁栄にもつながる。
芸術に造詣の深いジャクリーヌのおかげで、ダーンリーには将来有望な芸術家が集い、「芸術が華咲く都」と呼ばれるようにもなった。
「フィリップと結婚できて、幸せなの」
そんなことを照れずに素直に言える程度には、ジャクリーヌは幸せだった。
「だからもう、配慮は不要よ」
「配慮?」
「国王陛下と新しい王妃様のことが私の耳に入らないようにしてくれていたでしょう?」
結婚してから半年あまり。フィリップはもちろん、使用人たちですら、ジャクリーヌの祖国や元夫や聖女のことを、一切口にしなかった。
「気づいていたのかい?」
「さすがに。けれどもう大丈夫」
彼らについて何を聞いても、もし彼らに会っても、ジャクリーヌはもう心を乱されることはないだろう。
「幸せとはそういうことなのだと思うの」
自分が本当に幸せなら、自分を捨てた人や、自分の配偶者を奪った人のことなど、どうでもよくなる。
彼らはもう過去の存在であり、彼らが今のジャクリーヌの心に入り込む隙などないのだ。
「そうわかったのは、フィリップのおかげ」
フィリップは顔を赤くして、「それは嬉しいな」と口を押さえた。
◆
そのころ、前妻を追い出した国王は、少しずつ理想とのずれを感じ始めていた。
「ヴァレリーの清貧は、あまりに行き過ぎている」
最初は貧しい食事を一日一回でも、着るものに飾りが少なくても、持ち物を減らしても、やっていけると思った。
けれど腹は空くし、脂身の多い肉を食べたくなるときもある。
(なんて粗末な茶。ジャクリーヌなら決して口をつけないだろうな)
それに自分の色のドレスや宝石を身に着けた可憐な妻とデートしたいこともある。
(ジャクリーヌはいつも、私が贈った宝石を身に着けてくれていたな。よく似合っていた)
廃妃がいたときとは違って、王宮には花も飾られていない。廃妃が支援していた画家による大きな絵も取り外されて、部屋も廊下も寂しい。
「ヴァレリー、ちょっとやりすぎじゃないかな。気が滅入るよ」
「なにをおっしゃいますの、国王陛下。雨漏りしない屋根があって、風にもガタガタ言わない壁があって、恵まれすぎている暮らしですのに」
「けれどこんな生活では、王族の権威も示せない」
「権威など必要ありません。ただ神の愛と恵みを民と分かち合うことが大切なのですから」
確かに節約をした分は、神殿を通して民に還元している。
その一方でメイドは「数が多すぎる」と解雇され、料理人は「やりがいを感じられない」と辞職した。出入りの商人や職人にも、他の貴族のもとに移った者が多い。
廃妃とは懇意にしていた宮廷画家も宮廷音楽家も、それに古くからの友人も、再婚後の王とは距離をとるようになった。
「ヴァレリー、清貧を実践するあまり孤独に陥っているようで怖いんだ」
それを聞いた新しい王妃は、ぱあっと顔を輝かせた。
「それこそ神の望んでおられる道です。正しいことをしながら孤独に苦しむ者にこそ、神は愛を向けてくださいます。その苦しみを、どうか信徒の前で告白なさってくださいまし」
そう訴える、澄んだ彼女の瞳。
「すべての人に理解されなくても、神はすべてご覧になっています」
名声も贅沢も望まず、ただ神だけを信じて邁進する。
自分は確かに、彼女のそんな純粋な心に惹かれたはずなのに…
「息苦しい」
話し合いをしようにも、すべて神の名のもとに否定されてしまうのだから。
「ヴァレリー、せっかくの誕生日なんだから、今日くらいは二人でゆっくりしよう。誕生日パーティーもしないことになったんだし」
「いいえ、奉仕を休むわけにはまいりません」
奉仕を優先するあまりに妃教育の進みが遅れていることも、悩みの種だ。やっとのことで家庭教師が何か教えようとしても、ヴァレリーはすぐに「神、神」と反論してしまう。
それでも、新しい王妃の国民人気は高い。二人して王宮の外に出れば、王族のものとは思えないような粗末な馬車を拝み、感激のあまり泣く民も多い。
「聖女様は医者にも見捨てられたうちの子を助けてくださった」
「日が昇ってから沈むまで、奉仕をやめないそうだ」
「聖女様が王妃様だなんて、この国は神に愛されている」
「だからこれでよかったのだ」と思う反面、身近な人間からは厄介者を見るような目をされて、足元から沈み込んでいくような感覚に襲われる。
「王宮の予算を奉仕の名目でどれだけ神殿に流しているか。神殿がそのすべてを民のために使っていると思うか?」
「一方で芸術にも服飾にもお金を使わない。このままじゃ、商工業も文化も衰退の一途だぞ」
「贅沢品もどんどん禁止されているじゃないか。酒もたばこも。やっていられないよな」
(批判されるにはあたらない。王族が湯水のように贅沢をするよりも、ずっといいはずだ)
国王と王妃は、権威と富ではなく、愛で国を治めると決めたのだから。
「陛下は、王ではなく修道僧になるつもりなのか?」
国王が必死に心の中で言い訳をしながら、けれど王宮内で囁かれるそんな声を無視できなくなってきたころ、王妃がこう言い出した。
「異教徒に奪われた聖地を取り返しませんと」
国務会議に集まっていた国王も閣僚も、目を丸くする。
「神が昨夜、私に夢でそうおっしゃったのです」
「聖地奪還戦を再開しろと言うのか?」
「ええ」
「ヴァレリー、それは無理だ。今までの聖地奪還戦でどれだけの犠牲が出たか、君だって知らないわけではないだろう。そのせいで聖地奪還戦が永久凍結されていることも」
「けれど神が望まれているのですよ!」
財務大臣が立ち上がる。
「戦争には金が必要ですが、国庫に余裕はありません」
大臣は「あなたが民に還元しろとうるさかったせいで」という言葉は、辛うじて呑み込んだ。
「見込みの薄い聖地奪還戦のために増税すれば、暴動が起こる可能性も」
「神の子たる我々は、神のために苦しみを受け入れるべきです」
一切の迷いのない、澄んだ瞳。
「神はこうもおっしゃいました。陛下が自ら出陣されるようにと」
「なっ…」
過去、自ら出陣した国王は、例外なく異教徒に捕らえられて殺されている。
「ヴァレリー、私に死ねと言うのか!?」
「神の思し召しならば」
会議室がざわりとなって、国王が王妃に抱いていた違和感が、一気に立体感をもって迫ってくる。
「ヴァレリー、君は王妃なんだ。神のことだけではなく、国や私のことも考えてくれ」
「いいえ、神が第一です」
国王は妻の瞳に狂気を感じ、身体を震わせた。
《陛下からこのようなお申し出をいただいたのも、神の愛でこの国中を満たせという、神の思し召し》
最初から、そうだったのだ。
王妃は国王に「あなたを愛している」と言う。けれどそれは彼女が信徒に「あなた方を愛している」と話しかけるときのそれと、同じ熱量なのだ。
なぜなら彼女が愛しているのは、神だけだから。彼女が王妃となったのは、神の思し召しだから。
「だめだ、ヴァレリー」
「どうしてですか」
「国が滅びる」
「国が滅びても、神は死にません」
「ああ…ああ、ヴァレリー…!」
終わらない押し問答。
結局王妃は乱心しているとされ、王宮内に軟禁されることになった。
《どうかご再考を、陛下。聖女様に王妃は務まりません。聖女様は確かに立派な方ですが、聖女と王妃では求められるものが違います》
国王は、気がつけば、真剣な表情でそう諭してくれた廃妃のことを思い出していた。
「ジャクリーヌ…っ!」
◆
《ブロー王国 政情不安》
《王妃 聖地奪還戦を強硬に主張 国王や閣僚と対立して軟禁》
《王妃を軟禁した王 民からの支持急落 一方で贅沢禁止令への富裕層の不満も顕在化》
見出しだけちらっと見て、ジャクリーヌは新聞をテーブルに置いた。ちらりとフィリップがジャクリーヌの様子を窺う。
「読まないのかい?」
「国を出るときにある程度予想はしていたし、もう興味が湧かないの。陛下が聖女様を切り捨てて方針転換しようが、最後まで彼女とともに墜ちていこうが」
「元夫婦のよしみで、国王を助けてやりたい」という気持ちにもならない。忠告を無視して聖女を選んだのは、彼だから。
ふっとフィリップがため息をつく。
「聖女ヴァレリー様も、決して悪人ではないのだけれどね」
「そうね、あのお方は歴代最高の聖女様だわ。けれど、聖女様のままでは通用しなかったのよ」
ジャクリーヌは茶に口をつけ、その味に満足した。聖女が容認しない、きっと一生知ることすらない、華やかな贅沢の味だ。
「そういえば、橋の件で外国の技師から返事が届いたよ。彼が開発した最新の工法だと、工期を抑えながら安全性も確保した堅牢な橋ができるそうだ」
「素敵。見せてちょうだい」
2026年7月24日、[日間]総合 - すべてのランキングで1位いただきました。読んでくださった皆様のおかげです。ありがとうございます。




