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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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第八話(前編):解答用紙の終わりと、開かれた扉

 最後の一秒までペンを走らせ、解答欄を埋め尽くした。

 中間試験、最終日の放課後。終了を告げるチャイムが学園の隅々にまで鳴り響いた瞬間、私は大きく息を吐き出し、机の上に突っ伏した。指先はシャーペンの握りすぎで感覚が麻痺し、脳内は英単語と歴史の年号が混濁したスープのようになっている。


「……終わった。ようやく、終わった……!」


 周囲からは一斉に地鳴りのような歓声と溜息が上がった。

「マジで数学死んだわ!」「今日、この後カラオケ行く奴ー?」

 教室は一瞬にして、一週間の抑圧を跳ね返すような熱狂に包まれる。一組三十五人のクラスメイトたちは、それぞれが解放感を共有し合い、華やかな放課後の計画に花を咲かせている。


 だが、私の目的地はカラオケでもパンケーキ屋でもなかった。

 私は震える指で筆箱を片付け、誰よりも早く鞄を肩にかけた。隣の席から三浦くんが何か言いかけたような気がしたが、それを振り返る余裕すらない。


 一週間。

 誠司さんから言い渡された、あの『琥珀』への立ち入り禁止命令。

 私はアスファルトを蹴り、都会の喧騒をすり抜け、慣れ親しんだあの路地裏へと疾走した。

 肺が灼けるような感覚も、今はただ心地よい。角を曲がり、赤煉瓦の壁が見えた瞬間、視界がパッと明るくなった。


 蔦の絡まる壁、控えめな真鍮の看板。

 私は呼吸を整え、重厚な木製の扉を押し開けた。


 カランコロン、という乾いたドアベルの音。

 そこに広がっていたのは、私が一週間夢にまで見た、深く、香ばしい珈琲の匂いだった。


「……誠司さん! ただいま戻りました!」


 カウンターの奥でネルドリッパーを手にしていた誠司さんが、ゆっくりと顔を上げた。


「……試験はどうだった。赤点があれば、その足を一歩も中には入れんと言ったはずだぞ」

「大丈夫です! 全部埋めました! この一週間、誠司さんとの約束を守って勉強しましたから!」


 私が報告すると、誠司さんは無言でカウンターの下へ手を伸ばした。

 そこに置かれたのは、丁寧に畳まれた、深い茶色のエプロン。


「……上がれ。今日からが本番だ。客の邪魔だけはするなよ」

「! はいっ!」


 私はカウンターの内側へと入り、初めて自分の腰にエプロンを巻いた。

 今日。今、この瞬間から。私は『琥珀』の店番として、初めて客の前に立つ。

 緊張で指先が震えるが、それ以上に、この場所の一員になれた喜びが勝っていた。


「よし。陽葵、まずは水とメニューだ。あちらの席へ運べ」

「……はい! いってきます!」


 私は誠司さんからトレイを受け取り、慎重に、フロアへと踏み出した。

 店内には数人の客がいたが、私は彼らの顔を一人も知らない。誰が何を好むのかも、今の私には全く分からない。


「……失礼いたします。お水です」


 初めて口にする、接客の言葉。

 緊張で声が僅かに上ずったが、客は新聞から目を離さず、短く頷いただけだった。

 学園での「背景」としての振る舞いとは違う、誰かの時間を邪魔しないための所作。

 私は誠司さんの動きを盗み見ながら、必死に自分の役割を探した。

 

 使用済みのカップを下げ、シンクで洗う。

 誠司さんの無骨な手の動きに合わせ、次に必要な器具を揃える。

 失敗をしないように、けれど迅速に。

 学校では指先一つ動かすのにも「目立たないように」と神経を削っていたけれど、ここでは逆だ。

 どうすればこの場所を快適に感じてもらえるか、それだけを考えて動く。


 初めて手にする布巾の感触、初めて嗅ぐ間近での抽出の香り。

 すべてが新鮮で、すべてが「現実」だった。

 私はカウンターの隅で、自分の居場所を一つずつ確認するように、一生懸命に働いた。

 誠司さんは相変わらず不愛想で、私を褒めることもしない。けれど、彼と一緒にこの空間を守っているという実感が、何よりも私を強くしてくれた。


 日が傾き、店内の琥珀色の照明が、長い影を落とし始める。

 試験明けということもあってか、路地裏の空気はどこか静まり返っていた。

 私は誠司さんの指示通り、窓際の席を整え、新しい客を迎える準備をした。


(頑張ろう。今日から、ここが私の仕事場なんだ)


 私は自分を鼓舞するように、エプロンの端をぎゅっと握った。

 

 その時だった。


 カランコロン、というベルの音が、夕闇の入り口に響いた。

 逆光の中、開かれた扉から、一人の人影が滑り込んでくる。


 高い身長。

 見覚えのある、私立星華学園の深い紺色のブレザー。

 その人物は、ひどく疲弊した様子で、フードを深く被り、周囲を警戒するように肩を揺らしていた。


(……えっ? あの制服……)


 私は息を呑んだ。

 まだ、顔は判別できない。

 けれど、その人物が纏っている空気は、間違いなく私が今日まで「背景」として眺めていた、あの学園の誰かのものだった。


 私はトレイを胸に抱き、心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。

 今日から始まった、私の初めての仕事。

 それを最初に見届けるのが、まさか学園の「あちら側」の人間になろうとは。


「いらっしゃい、ませ……っ」


 私の声が、緊張で震えた。

 その人物は、私の顔を見ることもなく、ただ一番端の、影になった席へと迷いなく向かっていく。


 静寂に満ちていた『琥珀』の空気が、その瞬間から、音を立てて変わり始めたのを私は感じていた。

 初めての客。

 そして、予想もしなかった邂逅。

 私の店番生活の第一歩は、想像もしなかった嵐の予感と共に幕を開けた。


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