第七話:鉛筆の音と、不敵な隣人
月曜日。一週間の始まりを告げる朝の光が、私立星華学園の白い校舎を無慈悲に照らし出している。
中間試験、後半戦。
校門をくぐる生徒たちの足取りは一様に重く、誰もが手元の参考書や単語帳に必死なしがみつき方をしている。もちろん、私もその例外ではない。
(……眠い。けど、寝るわけにはいかない……!)
土日の二日間、私は誠司さんとの約束を守るため、文字通り死に物狂いで机に向かった。
暗記科目の用語が脳内でゲシュタルト崩壊を起こし、数式が夢の中にまで追いかけてくるような、地獄の特訓。すべては、この試験を赤点なしで乗り切り、一刻も早く『琥珀』のエプロンを締め直すためだ。
寝不足でまぶたが重い。けれど、脳内には「赤点を取れば無期限謹慎」という誠司さんの低い声が、最高のアラームとして響き続けていた。
一年C組の教室。
予鈴が鳴る直前のこの時間は、いつも以上の緊迫感に満ちていた。
如月奏くんの周りに群がる女子生徒たちも、今日ばかりは控えめだ。彼自身、分刻みのスケジュールと試験勉強を並行しているせいか、いつもの完璧な王子様の笑顔に、隠しきれない疲弊の色が滲んでいる。
最前列の一ノ瀬蓮くんは、相変わらずだ。周囲の喧騒など存在しないかのように、微動だにせず教科書をめくっている。彼にとって試験とは、単に満点を確認するための作業に過ぎないのだろう。
私は窓際の後ろから二番目。自分の聖域――いや、ただの死角である席に深く沈み込んだ。
ここなら誰にも邪魔されない。誰の視界にも入らない。
ただの背景の一部として、ひたすら答案を埋めるマシーンになればいい。
「……おはよう、佐倉さん。顔色、真っ白だよ? 大丈夫?」
不意に、すぐ横から声をかけられた。
心臓が跳ねた。
恐る恐る顔を向けると、隣の席の三浦翔太くんが、椅子をガタつかせてこちらを覗き込んでいた。
ネクタイを緩め、どこか眠そうに目を細めている彼は、学園でも「チャラい」と有名な帰宅部。私のような背景とは、最も縁遠い人種のはずだった。
「え、あ、……おはよう、三浦くん。……大丈夫だよ、ちょっと寝不足なだけ」
「へぇ。……あの佐倉さんが勉強で夜更かし? 意外だわ。如月たちの追っかけでも始めたのかと思ったよ」
「そんなわけないでしょ。……私には、関係ない世界だもん」
私は引きつった笑顔で返し、すぐに前を向いた。
会話を広げてはいけない。認識されてはいけない。
私はただのモブだ。彼のような、誰とでも距離を詰めてくる人種に捕捉されるのは、平穏な日常にとって最大の危機と言っていい。
やがて、長谷川先生が鋭い足音と共に教室へ入ってきた。
「席に着け! 私語はそこまでだ。……いいか、この中間試験の結果が、お前たちの学園生活の最初の評価になる。気を引き締めろ!」
鉄の女の喝に、教室内は一瞬で氷ついたような静寂に包まれる。
二時間目、数学。
配られた問題用紙をめくった瞬間、私は絶望の淵に立たされた。
予想していた範囲から微妙にズレた、難解な証明問題。
脳内の数式が、バラバラに解けて逃げていく。
赤点。謹慎。誠司さんの呆れた顔。
それらが巨大な岩のように押し寄せ、私の指先はガタガタと震え始めた。
(落ち着け、私……! 練習した。同じような問題を、誠司さんが淹れてくれた珈琲を飲みながら解いたはずだ……!)
手汗でシャーペンが滑る。
私は焦って消しゴムを手に取った。
その時だった。
力みすぎた指先から、新品の消しゴムがツルリと逃げ出したのだ。
「あっ……!」
小さな悲鳴が漏れる。
消しゴムは放物線を描き、私の「背景の境界線」を易々と越えていった。
カツン、と乾いた音を立てて着地したのは、隣の席――三浦くんの足元だった。
真っ白になった。
試験の最中に、隣の生徒の足元に物を落とす。これほど「背景」にあるまじき失態があるだろうか。
私がパニックで固まっていると、三浦くんが音もなく手を伸ばした。
彼は解答を書き続けるペンを止めることなく、左手でさらりと私の消しゴムを拾い上げた。
そして、長谷川先生の監視の目を潜り抜けるような流れるような動作で、私の机の端にそれを置いた。
一瞬、彼と目が合った。
三浦くんは、声を出さずに口角をわずかに上げた。まるで「貸しだぞ」とでも言うような、不敵な笑み。
私は小刻みに会釈をして、震える手で消しゴムを握りしめた。
それからの試験時間は、記憶が曖昧だ。
必死にペンを動かしたことだけは覚えている。
終了のチャイムが鳴り、長谷川先生が解答用紙を回収し終えた時、私は机に突っ伏した。
「……お疲れ、背景さん」
すぐ横から、またしても低い声が降ってきた。
顔を上げると、三浦くんが椅子をこちらに向けて座っていた。
「……三浦くん。さっきは、ありがとう。……でも、背景さんって何?」
「言葉の通りだよ。佐倉さんってさ、いつも気配を消してるだろ? 如月たちが騒がれてる時も、一ノ瀬が鼻にかけてる時も、君だけは壁の一部みたいになってる。……でもさ、今日のはちょっと目立ちすぎ」
三浦くんはニヤニヤしながら、私の消しゴムを指差した。
「あんな勢いよく飛ばされたら、嫌でも気づくって。……ねえ、佐倉さん。君、本当は何を隠してるの? 勉強嫌いそうな顔して、実はめちゃくちゃ気合入ってるじゃん」
「……隠してないよ。ただ、赤点取ると、いろいろ困るだけ」
「ふーん。いろいろ、ねぇ……」
三浦くんの視線が、値踏みするように私をなぞる。
まずい。
この人は、鋭すぎる。
チャラい外見に騙されそうになるけれど、彼は誰よりもクラスの「異質」に敏感なのだ。
私が徹底して守ってきた「ただの背景」という仮面が、この消しゴム一個の失態で、じわじわと剥がされ始めている。
「……とにかく、返してくれて助かったよ。ありがとう、三浦くん。じゃあ、私は次の科目の勉強があるから……」
「いいよ。また明日ね、背景さん。……明日で試験終わりだし、その後お茶でも行かない? 駅前にいい店あるんだよ」
「ごめん、用事があるから!」
私は逃げるように教科書を開き、視線を落とした。
三浦くんは「ははっ、振られたか」と楽しそうに笑い、自分のグループの元へと戻っていった。
心臓の鼓動が、耳の奥まで響いている。
三浦翔太。
入学以来、一度も言葉を交わしたことがなかった隣の席の男子。
彼という不確定要素が、私の平穏な日常に、取り返しのつかない亀裂を入れてしまった。
(……明日。明日で試験が終われば、お店に戻れる。誠司さんのところへ行ける)
私は自分を落ち着かせるように、震える指でシャーペンの芯を出した。
窓の外では、春の風が激しく吹き荒れている。
明日。
試験という重圧から解放された後、私は再び『琥珀』の扉を叩く。
その場所に、いつも通りの静寂と、叔父さんの不愛想な笑顔があることだけを、今はただ切実に願っていた。
でも、気づいていなかった。
三浦くんが投げかけた波紋が、私という「背景」を、望まぬ方向へと押し流そうとしていることに。
そして、明日。
その『琥珀』という場所が、私だけの隠れ家ではなくなってしまうことも。




