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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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第六話:雨だれのプレリュードと、託された旋律

 指先が、微かに震えている。

 それは武者震いでも、恐怖でもない。ただ、完璧な「正解」を求められ続けることへの、肉体的な拒絶反応だった。

 私立星華学園の特別棟。防音壁に囲まれた音楽室の片隅で、俺はスタインウェイの鍵盤を見つめていた。

 千ヶ崎響。世界を股にかける若き天才ピアニスト。

 世間が俺に貼ったラベルは、あまりに重く、あまりに排他的だ。一度鍵盤に触れれば、そこには一ミリの妥協も、一音の狂いも許されない。楽譜という名の絶対的な設計図に基づき、作曲家の意図を完璧に再現するだけの、精巧な自動演奏機械。それが、周囲が俺に期待している姿だった。


(……音が、硬い)


 一音、一音を刻むたびに、脳裏に鋭い痛みが走る。

 クラシックの世界は、数学のように厳格だ。打鍵の強さ、ペダリングのタイミング、休符の長さ。それら全てに「正解」があり、そこから逸脱することは「敗北」を意味する。

 コンクールでの順位、評論家の冷徹な言葉、そして次に控える海外公演のプレッシャー。

 俺の耳には、いつの間にか自分自身の奏でる旋律が、呪いのようにこびりついて離れなくなっていた。


 放課後。俺は逃げるように特別棟を後にした。

 学園の廊下を歩けば、遠巻きに畏敬の視線が突き刺さる。誰も俺に話しかけようとはしない。俺の周囲には、音の壁が張り巡らされていることを、彼らは本能的に察しているのだろう。

 その孤独さえも、芸術家としてのスパイスとして消費されることに、俺は吐き気を覚えた。


 喧騒を離れ、都会のビル群の隙間に隠れるように存在する、あの場所へと向かう。

 アスファルトの熱が冷め、代わりに古い石畳が足音を吸い込んでいく路地。

 蔦の絡まった赤煉瓦の壁。控えめな真鍮の看板。

 『喫茶 琥珀』。


 カランコロン、という乾いたドアベルの音が響く。

 瞬間に俺を包み込んだのは、クラシックの厳格さとは対極にある、自由で、不規則で、泥臭い音楽の揺らぎだった。

 店内に流れているのは、古いレコードから流れるジャズだ。

 サックスの掠れた音色、予測不能なピアノのアドリブ、地を這うようなベースのリズム。

 それは、この店の叔母――志乃さんが最も愛した音楽だった。

「響くん、音楽は楽譜の中にだけあるんじゃないのよ。このジャズみたいに、その時の呼吸で変わっていいものなの」

 幼い頃、俺をこの店に連れてきてくれた彼女の、穏やかな声が蘇る。


 俺はいつもの、店の隅にある小さなテーブル席に腰を下ろした。

 カウンターの奥では、誠司さんが黙々と手を動かしている。彼は俺が世界的なピアニストであろうと、ただの迷い子のガキであろうと、その態度を変えることはない。

 その不愛想さが、今の俺には何よりも救いだった。


「……待て。志乃から、言伝がある」


 誠司さんが、低い声で俺を呼び止めた。

 彼はカウンターの奥から、一枚の小さなメモを取り出し、俺の前に無造作に置いた。

 そこには、入院中の志乃さんの、少し震えたけれど温かみのある文字が並んでいた。


『響くんへ。最近、あなたの音が少し尖っている気がします。

 もし指先が疲れたら、誠司さんに言って。

 あの青いカップで、いつもの一番苦い珈琲を飲みなさい。

 楽譜を閉じて、ただの音に耳を傾ける時間も必要よ。』


 読み終えた瞬間、視界がわずかに滲んだ。

 彼女は、俺が今、何に苦しんでいるのかを、会わずともすべて見抜いている。

 完璧主義という鎖に縛られ、音楽を奏でる喜びを忘れかけていた俺の指先を、彼女の言葉が優しく解きほぐしていく。


 誠司さんは何も言わず、棚の奥から一点ものの、深い青色をした陶器のカップを取り出した。

 志乃さんが、俺のためにと用意しておいてくれた、特別な器。

 誠司さんは、志乃さんから聞いていた「俺の好み」を、正確に再現し始めた。

 豆の選定、挽き具合、そしてお湯を注ぐ速度。

 彼が淹れる珈琲には、志乃さんの教えが、一滴残らず注ぎ込まれているように見えた。


 ガリガリ、という豆を挽く音。

 シュッ、という熱いお湯が落ちる音。

 そして、店内に流れる自由なジャズの旋律。

 俺は目を閉じ、それら全てを「ただの音」として受け入れた。

 ここでは「正解」を出す必要はない。

 誰かに評価されることも、採点されることもない。

 ただ、この場所に流れる不規則なリズムの一部として、存在していればいい。


 しばらくして、目の前に青いカップが置かれた。

「……飲め。冷めないうちにな」


 誠司さんの短い言葉と共に、香ばしい湯気が俺の顔を包み込む。

 俺は震える手で、その繊細な取っ手に指をかけた。

 鍵盤を叩くための指ではなく、ただ温もりを求めるための指で。


 一口啜れば、暴力的なまでの苦味が舌を貫き、その奥にある深い大地の香りが鼻から抜けていく。

 苦い。ひたすらに苦い。

 けれど、その苦味は、俺の耳にこびりついていたクラシックの残響を、綺麗に洗い流してくれた。


「……ふぅ」


 熱い液体が喉を通るたびに、全身の強張っていた筋肉が、ゆっくりと緩んでいく。

 俺はカップを見つめ、その深い青の中に自分の姿を投影した。

 志乃さんが言っていた通りだ。

 俺に必要なのは、完璧な旋律ではなく、こうした「正解のない沈黙」と、自分を甘やかしてくれる苦味だったのだ。


 誠司さんは、カウンターの奥で再び別の客の準備を始めている。

 俺と彼の間に、会話はない。

 けれど、この「沈黙」こそが、俺にとっての最高の賛辞だった。

 彼は、俺を千ヶ崎響としてではなく、志乃が目をかけていた一人の客として、ただそこに居させてくれる。

 ジャズのレコードが終わり、パチパチという針の音だけが響く。

 誠司さんは無言で立ち上がり、次のレコードを選び始めた。

 志乃さんが好きだった、別の即興曲。

 その自由な音色が、俺の枯れ果てていた感性の泉を、再び満たしていく。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 俺は青いカップを空にし、深く息を吐いた。

 不思議なことに、あんなに震えていた指先が、今は静かに安定している。

 鍵盤を叩くための緊張ではなく、新しい音を紡ぎ出したいという、静かな情熱が内側から湧き上がってくるのを感じた。


「……ご馳走様、誠司さん。志乃さんに、音が少し軽くなったって伝えておいて」

「……ああ。……また来い」


 誠司さんの短い返事を聞きながら、俺は立ち上がった。

 伝票を置き、会計を済ませる。

 ドアベルの音を聞きながら、俺は再び夜の帳が降りた路地裏へと踏み出した。


 外の空気は冷たく、街の騒めきは相変わらずだ。

 けれど、今の俺にはそれが不快なノイズには聞こえなかった。

 街の呼吸、人々の歩調、風の音。

 それら全てが、音楽の一部として俺の感性に染み渡っていく。


 明日からまた、俺は学園という名の戦場へ戻り、完璧なピアニストを演じなければならない。

 けれど、もう大丈夫だ。

 俺には、この場所がある。

 志乃さんの愛したジャズが流れ、誠司さんが一人で守り続ける、この琥珀色の時間が。


(……ありがとう、志乃さん)


 俺は夜空を見上げ、小さく呟いた。

 俺を救ってくれたのは、楽譜の中の正解ではなく、この路地裏で託された、名もなき沈黙だった。

 俺は再び自分の旋律を紡ぐために、確かな足取りで、光り輝く大通りへと歩き出した。


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