第三話:眩しすぎるライトと、路地裏の静寂
肌を刺すような白いライトの群れが、俺の輪郭を執拗になぞっていく。
中間試験初日の午後。放課後を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、俺は学園の喧騒を背に、待機していた送迎車に飛び込んだ。一息つく暇もなく、辿り着いたのは都内の撮影スタジオだ。
「奏くん、入ります! よろしくお願いします!」
マネージャーの威勢の良い声と共に、俺は巨大な「如月奏」という名の偶像を起動させる。
スタジオ内は異常な熱気に包まれていた。最新のライティング機材が放つ熱は、冷房の冷気を易々と上書きし、俺の皮膚をじりじりと焼き続ける。
「いいよ、奏! もっと挑発的に、世界を跪かせるような視線で!」
カメラマンの絶叫が、シャッター音の連射と共に鼓膜を叩く。
俺は脳を通さず、筋肉の記憶だけでポーズを変えていく。顎の角度、指先の反り、瞳の潤い。それら全てが、統計的に「最も売れる」形へと一秒刻みで収束していく。
如月奏は、光の化身でなければならない。
如月奏は、全人類の夢を一身に背負う太陽でなければならない。
たとえ、その光の裏側で俺という人間の芯が、砂のように崩れ落ちていたとしても。
一時間の撮影で数千枚の「俺」が量産され、それがモニターに映し出されるたび、スタッフたちから感嘆の声が上がる。
「完璧だ」「神がかってる」
その言葉は、俺には届かない。モニターの中にいる「美しすぎる少年」は、俺であって俺ではない、精巧な作り物にしか見えなかった。
撮影が終われば、次は新曲のプロモーションビデオのチェック、その次はラジオのコメント録り。分刻みのスケジュールは、俺の精神を細かく切り刻み、商品として小分けにしていく。
移動中の車内ですら、SNS用の「オフショット」を自撮りしなければならない。
愛している。ずっと見ていたい。死ぬまで応援する。
画面の向こうから押し寄せる、何十万、何百万という無責任な「熱狂」が、見えない触手のように俺の首を締め上げていく。
(……うるさい。全部、消えてくれ)
スタジオの片隅で、用意された冷え切った弁当を口に運ぶ。
噛みしめても味がしない。喉を通るのは、ただのエネルギー補給という作業でしかない。
ふと、午前中の試験の風景を思い出す。
教室で、淡々と問題を解く一ノ瀬蓮。彼はその知性で世界と戦っている。
橘駆は、その肉体で勝利を掴み取ろうとしている。
だが、俺は。
俺の存在そのものが、他人の快楽のために調理され、食い散らかされていく。
学園で俺を追いかけ回す女子生徒たちも、ここで「神」と崇める大人たちも、俺という「人間」には興味がない。彼らが求めているのは、記号化された「如月奏」という幻想だけだ。
休憩時間が終わろうとした、その時だった。
事務所のスタッフが慌ただしく電話をしている隙。スタジオの搬入口が、ほんの少しだけ開いているのが見えた。
外から吹き込んできたのは、都会の埃っぽくも、どこか冷たい自然の風。
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて決壊した。
(逃げろ。今、ここで死にたくなければ)
俺は反射的に、用意された「如月奏」としての動線を逸れた。
衣装の上に、現場に転がっていた黒い私物のパーカーを無理やり羽織る。フードを深く被り、誰にも声をかけず、影のように搬入口を抜け出した。
背後でスタッフの呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、振り返らない。
俺は全力で走り出した。
夕暮れの都心を、死に物狂いで駆け抜ける。
派手な衣装が覗かないよう、パーカーの前をきつく合わせ、顔を伏せた。
大通りを避け、暗く入り組んだ裏路地へ。
肺が灼ける。喉が血の味を覚える。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
もし今、誰かに見つかり、「如月奏」として認識されたら、俺は二度とこの闇から抜け出せなくなる気がした。
走り続けて、どれほど時間が経っただろうか。
周囲の喧騒が、嘘のように遠のいた。
アスファルトはひび割れ、壁には蔦が絡まり、街灯が心細げに瞬く、古い住宅街。
ふと、記憶の底に沈んでいたセピア色の景色が、目の前の路地と重なった。
幼い頃。まだ自分が「商品」になる前。叔母の志乃さんに連れられて歩いた、あの静かな道。
「奏、疲れたらここへおいで。世界で一番静かな時間が流れているから」
彼女が優しく微笑んで指差した、あの場所。
角を曲がった瞬間、それを見つけた。
蔦の絡まった赤煉瓦の壁。控えめな真鍮の看板。
『喫茶 琥珀』。
まだ、消えずに残っていた。
俺は吸い寄せられるように、その扉へと手をかけた。
カランコロン、という乾いたベルの音。
扉の向こう側にあったのは、圧倒的な、暴力的なまでの「静寂」だった。
店内に漂うのは、深く、香ばしい珈琲の匂い。
学校の廊下を埋め尽くす歓声も、スタジオを焼き尽くすライトの熱も、ここには一筋も届かない。
古い振り子時計が、淡々と刻む音。それだけが、この空間の時間を司っていた。
俺は肩で息をしながら、一番端の、影になったテーブル席へ崩れ落ちるように座った。
フードは被ったまま。顔を上げることもできず、ただ膝の上で震える手を見つめていた。
やがて、重厚な足音が近づいてくる。
「……注文は」
低く、ぶっきらぼうな男の声。
俺は恐る恐る、視線を上げた。
カウンターの奥から出てきたのは、不機嫌そうなほど無愛想な中年男性だった。
彼は俺が誰であるかなど、一ミリも興味がないようだった。俺の顔を覗き込むことすらせず、ただの「面倒な客」として、注文を催促している。
「……一番、苦いコーヒーを」
掠れた声で、それだけを言った。
男は「……ああ」とだけ短く答え、再びカウンターの奥へと消えていった。
俺は机に突っ伏した。
誰も、俺を見ていない。
俺が学園の王子様だろうが、トップアイドルだろうが、この空間では何の意味も持たない。
ただの、道端でへたり込んでいる一人の疲れた客。
それを「如月奏」として消費しない場所が、この世界に残されていた。
その事実だけで、肺に溜まっていた泥のような重圧が、少しだけ軽くなるのを感じた。
しばらくして、テーブルに陶器が触れ合う音がした。
「……待たせたな」
置かれたのは、湯気を立てる漆黒の液体。
俺は震える手でカップを持ち、それを一口啜った。
「……っ」
喉を焼くような、強烈な苦味。
けれど、その奥にある深いコクと温かさが、摩耗しきっていた俺の芯をゆっくりと繋ぎ止めていく。
苦い。ひたすらに苦い。
けれど、その苦味こそが、俺が今、この瞬間に「生きている」ことを証明してくれている。
偶像としての笑顔でもなく、商品としての輝きでもない。ただの、一人の人間としての体温を。
店の外では、今頃事務所が血眼になって俺を探しているだろう。
明日もまた、分刻みのスケジュールに従って、如月奏を演じなければならない。
けれど、今だけは。
この珈琲を飲み終えるまでの数分間だけは。
俺は、俺でいられる。
俺は冷めていく珈琲の表面を見つめながら、静かに息を吐いた。
明日も。その次も。
もし俺が、如月奏として壊れそうになったら、ここへ来よう。
ここだけは、俺を見ない。
ここだけは、俺を暴かない。
明日も続く、中間試験。学園の王子様たちが、数字という名の冷酷な評価に晒される日々。
その嵐の合間に、俺は再びこの扉を叩くだろう。
そこにあるのが、いつも通りの不愛想な店主と、この沈黙だけであることを願って。
俺は最後の一滴を飲み干し、フードを深く被り直した。
今の俺には、明日もこの店に陽葵がいないことなど、知る由もない。
ただ、この路地裏の静寂だけが、俺に残された唯一の救いだった。




