第二話:珈琲の香りと、遠ざかる放課後
校門を一歩出ると、春特有の湿り気を帯びた風が頬を撫でた。
私立星華学園の巨大な校舎を背に、私は駅へ向かう人の流れとは反対の方向へ、意識的に足を向けた。入学してから一週間。ようやくこの学園での「背景」としての歩き方が身についてきたところだ。
大通りを避け、街路樹が影を落とす静かな住宅街へ入る。角を曲がるたびに、放課後の喧騒が少しずつ遠のいていく。
(……ここを真っ直ぐ行って、二つ目の路地を右に曲がれば……)
記憶の糸を辿るように歩みを進めると、不意に、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
排気ガスや埃の混じった都会の空気とは違う、深く、香ばしい、炒りたての珈琲豆の香り。
蔦の絡まった古い赤煉瓦の壁が見えた時、私の胸は小さく高鳴った。
『喫茶 琥珀』。
真鍮の看板は少しだけくすんでいたけれど、そこには確かに、私が幼い頃によく遊びに来ていたあの店の名前が刻まれていた。
私は呼吸を整え、重厚な木製の扉を押し開けた。
カランコロン、という乾いたドアベルの音が店内に響く。
瞬間に全身を包み込んだのは、セピア色の写真の中に迷い込んだかのような、静かな時間だった。
使い込まれたダークブラウンのカウンター、等間隔に並んだ革張りのスツール。そして、壁でカチコチと時を刻む古い振り子時計。
客はまばらで、誰も入り口を振り返る者はいない。それぞれが、自分の注文した珈琲と、手元の本や新聞に没頭している。
「……いらっしゃい。空いている席へ」
カウンターの奥から、低く、不愛想な声がした。
ネルドリッパーを手にじっと手元を見つめているのは、私の父の弟――叔父の誠司さんだった。
数年ぶりに会う彼は、記憶の中にある姿よりも少しだけ肩幅が広くなり、眉間の皺が深くなったように見えた。
「あの、誠司さん。陽葵です。佐倉陽葵」
私が恐る恐る声をかけると、誠司さんはゆっくりと顔を上げた。
鋭い眼光が私を射抜き、数秒の沈黙が流れる。やがて、彼はふっと短く息を吐いた。
「……陽葵か。兄貴から連絡は受けていたが、本当に来たのか」
「はい。入学式が終わって、生活も少し落ち着いたので。……志乃さんのことも、聞きました」
私が声を落とすと、誠司さんは無言でドリッパーを棚に戻した。
叔母の志乃さんは、先月から体調を崩して入院している。いつも太陽のように明るく、この店を切り盛りしていた彼女がいなくなったことで、誠司さんは一人でこの店と、志乃さんの看病を両立させているはずだ。
「一人で大変だって聞いたから、私に手伝わせてほしいんです。学校が終わってからなら、毎日でも来られますから」
私の申し出に、誠司さんは再び黙り込んだ。
カウンターに置かれた彼の大きな手は、珈琲豆の油分だろうか、うっすらと黒ずんで見えた。それが、彼が一人でこの場所を守り続けてきた時間の重さを物語っている。
「……お前に何ができる。珈琲の淹れ方一つ知らないだろう」
「掃除でも、皿洗いでも何でもやります! 学校では目立たないようにしてる分、体力は余ってるんです。お願い、誠司さん!」
私が食い下がると、彼は溜息をつき、カウンターの下から予備のエプロンを取り出した。
深い茶色の、使い古されたエプロン。それをぶっきらぼうに手渡される。
「……勝手にしろ。だが、客の邪魔だけはするなよ」
「! はい! ありがとうございます!」
私は嬉しくなって、その場でエプロンを腰に巻いた。
学校で着ている窮屈な制服の上から、この重みのある布を纏うだけで、自分が「透明な背景」から「誰かの役に立つ人間」になれたような気がした。
私は早速、布巾を手に取ってカウンターを拭き始めた。
志乃さんがいた頃のように、ここをいつも清潔にして、美味しい珈琲を出す。その手伝いができることが、誇らしかった。
だが、私のやる気は、直後に冷や水を浴びせられることになる。
カウンターに置かれたカレンダーをふと見た誠司さんが、鋭い声で私を呼び止めた。
「待て、陽葵。お前、来週から中間試験じゃないのか」
「えっ? あ、うん。そうだけど……」
「学校の予定表を見ろ。月曜日から一週間、試験期間だろう。星華学園は学業に厳しいと聞いているぞ」
誠司さんの指摘に、私は言葉を詰まらせた。
確かに、入学して初めての定期試験が数日後に迫っている。長谷川先生も「赤点を取れば補習地獄だ」と何度も念を押していた。
「……志乃との約束だ。お前の本分は学生だろう。試験が終わるまで、店への立ち入りを一切禁じる」
「ええっ!? そんな、せっかく今からやる気満々なのに!」
「ダメだ。兄貴にも、お前の勉強を優先させると約束してある。いいか、試験最終日の放課後まで、この店の敷居を跨ぐな」
誠司さんの言葉は、鉄のように固く、拒絶の意志に満ちていた。
不器用な彼は、私が店を手伝うことで成績を落とすことを、何よりも恐れているのだ。それが志乃さんに対する、彼なりの責任感なのだと分かってしまった。
「……分かったよ、誠司さんのケチ。でも、試験が終わったら、絶対に働かせてね。約束だよ?」
「ああ。結果次第だがな」
「うう、厳しい……。分かったよ、頑張るよ!」
私は巻いたばかりのエプロンを、一度も客の前に出ることなく外した。
丁寧に畳んで、カウンターの隅に置く。
やる気に燃えていた心が、少しだけしょんぼりとしぼんでいくのを感じた。
けれど、ここで無理を言って誠司さんを困らせるわけにはいかない。
「じゃあ、誠司さん。志乃さんによろしくね! 明日から勉強頑張るからって伝えて!」
「ああ、分かった。……気をつけて帰れよ、陽葵」
誠司さんの見送りを受け、私は再び扉を開けた。
カランコロン、というベルの音が、どこか「さよなら」と言っているようで寂しい。
外に出ると、夕闇が路地を濃く染め始めていた。
街灯がポツポツと灯り、昼間の賑やかさが嘘のように、街は静まり返っている。
明日から始まる、長く、静かな試験勉強の日々。
学園で「背景」として過ごす時間は変わらない。放課後の手伝いもしばらくはお預けだ。
私は夜道を歩きながら、拳を小さく握りしめた。
早く試験を終わらせて、あのエプロンを締めたい。
ただそれだけの願いを胸に、私は足早に自宅へと向かった。




