第二十三話:泥土の休息と、エースの帰還
五月の柔らかな陽光が、石畳の路地裏を琥珀色に染め上げていた。
誠司さんは、志乃さんの退院に向けた自宅の環境整理や、病院への届け物のために午前中から外出している。「戸締まりだけは二重に確認しろ」という、いつもの短い警告を背中で聞きながら、私は日曜の午後の『喫茶 琥珀』を一人で守っていた。
(……よし。シロップの補充も終わったし、あとは豆のハンドピックね)
カウンターの隅で、私はトレイに広げたコーヒー豆を、ピンセットで一粒ずつ選別していく。欠けたり、形が歪んだりした豆を丁寧に取り除く作業は、無心になれて嫌いじゃない。
志乃さんの栞には、こう記されていた。
『日曜日の午後は、自分と向き合う時間。静かな音を立てて、豆を愛でなさい。それが、お客様に届く一番の隠し味になるのよ』
その教えを守るように、私は静かなジャズの旋律に合わせて、指先を動かし続けた。
カランコロン、という、どこか重みのあるドアベルの音が沈黙を切り裂いた。
入ってきたのは、土埃の匂いを全身に纏った橘駆くんだった。
泥の付いたユニフォーム。肩に担いだ重そうなエナメルバッグ。そして、マウンドからそのまま降りてきたような、どこか張り詰めた険しい表情。
「……橘くん。いらっしゃい。今日も練習試合だったの?」
彼がカウンターのいつもの席にどかっと腰を下ろすと、椅子が僅かに軋んだ。
「……ああ。完投だ。……でも、身体が鉛みたいに重いわ」
駆くんはタオルで顔を乱暴に拭い、深く、長く溜息を吐き出した。
夏の予選を目前に控え、周囲からの「エース」への期待は、日に日に高まっているはずだ。学園の廊下ですれ違う時も、彼は常に仲間に囲まれ、快活に笑っている。けれど、今の彼には、そんな「完璧なエース」としての余裕は微塵もなかった。
「……お疲れ様。橘くん。今、冷たいお水持ってくるからね」
私は、彼が「期待の眼差し」から解放されるよう、あえて過剰な労いも、試合の内容への質問も口にしなかった。ただの、泥だらけで喉を枯らした一人の男の子として、当たり前の接客を心がける。
駆くんは、私が出したグラスの水を一気に飲み干すと、カウンターに突っ伏した。
「……生き返るわ。……あそこ(グラウンド)にいるとさ、一球も外せねーっていうか。全員が俺の背中を見てると思うと、息が詰まりそうになるんだよな」
それは、誠司さんという「憧れの大人」の前でも、部活動の仲間の前でも決して見せない、彼の本当の弱音だったのかもしれない。
私は、志乃さんの栞の後半部分を思い出した。
『泥だらけの彼が本当に欲しがるのは、覚醒の珈琲じゃないわ。心を一度、ニュートラルに戻すための甘みよ』
私はカウンターの奥で、志乃さんのレシピに基づいた「特別なはちみつレモン」を準備した。
自家製の蜂蜜にじっくり漬け込まれたレモン。そこに、ほんの少しだけ志乃さんが隠し味に使っていた「塩」を加え、彼の失われた体力を補うための一杯。
「……はい。これ、志乃さんのレシピで作ったんです。一番疲れている時に効くって、栞に書いてあったから」
「……志乃さんの?」
駆くんは顔を上げ、黄金色に輝くグラスを両手で受け取った。
一口、慎重に啜る。
「…………っ」
刹那、彼の喉が大きく鳴り、強張っていた表情が、春の雪解けのようにゆっくりと解けていった。
「……これだ。中学の時、練習でボロボロになってここへ逃げ込んできた時、志乃さんがよく出してくれたやつだ」
駆くんは、グラスの中に沈むレモンを愛おしそうに見つめた。
「……佐倉。お前が淹れるとさ、志乃さんの味なのに、なんか……今の俺にちょうどいい感じがするわ。不思議だな」
「そうかな。……私はただ、橘くんがマウンドで笑えるようになればいいなと思って淹れただけだよ」
「……笑えるように、か。……そうだな。俺、背負い込みすぎてたかもな」
彼は残りを一気に飲み干すと、エプロン姿の私をじっと見つめ、それから力強く頷いた。
「……サンキュ。おかげで、身体が軽くなったわ。……明日からまた、全力で投げられそうだ」
彼は立ち上がり、バッグを肩に担ぎ直した。
その瞳には、店に入ってきた時の焦燥は消え、代わりにエースとしての静かな闘志と、一人の少年としての清々しさが宿っていた。
「会計、そこに置いとくわ。……誠司さんによろしくな。……それと、佐倉。……また、飲みに来るわ」
「はい。いつでも待ってますね。頑張って、橘くん」
カランコロン。
ドアベルの音が、初夏の風と共に店内に吸い込まれていく。
店を出ていく彼の背中は、西陽に照らされて、さっきよりもずっと大きく見えた。
独占欲も、執着もない。ただ、一杯の飲み物と、それを提供する店員としての日常。
けれど、その「当たり前」の繰り返しが、彼らにとっては一番の救いなのかもしれない。
私は空になったグラスを片付けながら、志乃さんのレシピの確かさと、この場所を守り続ける意味を、改めて噛み締めていた。




