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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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第二十二話:解きほぐされる思考と、琥珀色の静寂

 週末の『喫茶 琥珀』は、窓から差し込む柔らかな陽光が、長い年月を経て磨き上げられた木製のカウンターを琥珀色に照らし出していた。

 誠司さんは午前中から志乃さんの病院へ向かっており、店内には開店準備を終えた私一人だけが残されている。焙煎された豆の香ばしい匂いが、静まり返ったフロアに心地よく漂っていた。

(……よし。掃除も補充も完璧。誠司さんに、今日も合格点をもらえるように頑張らなきゃ)

 私はエプロンをきゅっと締め直し、カウンターの隅で志乃さんから授かったレシピ入りの栞をそっと開いた。そこには、常連さんたちの好みの細かな変化や、その日の天候に合わせた抽出のコツが、温かな筆致で記されている。

 カランコロン、という控えめなドアベルの音が、午後の静寂を優しく揺らした。


「いらっしゃいませ……あ、一ノ瀬くん。おはようございます」

 入り口に立っていたのは、眼鏡の奥に冷静な知性を湛えた一年C組の秀才、一ノ瀬蓮くんだった。

 彼はいつもの制服姿ではなく、落ち着いた紺色のカーディガンを羽織った清潔感のある私服姿だ。手には、昨日図書室で借りていたものとは別の、厚みのある海外文学の文庫本が握られている。

「……おはよう、佐倉さん。今日は店主さんは不在か」

「はい。叔父は病院へ行っています。……いつもの壁際の席でよろしいですか?」

「……ああ。頼む」

 一ノ瀬くんは短く応じると、迷いのない足取りで彼専用の「指定席」となっている壁際の小さなテーブルへと向かった。

 彼は席に着くなり、音を立てずに本を開き、瞬時に物語の世界へと没頭していく。その姿は、まるで周囲の空間から自分自身を切り離し、文字の海へと深く潜り込んでいくかのようだった。

 私は、彼の思考の糸を断ち切らないよう、細心の注意を払ってお水の入ったグラスを運んだ。


 一ノ瀬くんが求めているのは、過剰な接客でも、賑やかな活気でもない。ただ、自分の思考を自由に泳がせることができる、完璧な「静寂」と「距離感」だ。

(……志乃さんの栞には、一ノ瀬くんの好みについてこう書いてあったっけ)

『蓮くんは、言葉よりも音に敏感よ。彼が本に集中している時は、背景に徹しなさい。でも、指先が冷えてきたら、少しだけ温度を上げた一杯を。彼は意外と、温度の変化に気づく子だから』

 私はカウンターの奥に戻り、彼のために豆を選び始めた。

 今日の五月晴れの空気に合わせて、後味がすっきりとした、けれど深いコクのある豆を。

 ミルが豆を挽く規則正しい音。お湯が細く、円を描くように落ちていく音。

 店内に流れるジャズの旋律を邪魔しない程度の、心地よい生活の音。

 一ノ瀬くんは一度も顔を上げなかったが、私が丁寧に珈琲を淹れる気配を、背中で感じ取っているようだった。


「……失礼いたします。本日のブレンドです」

 私は、彼が栞を挟んで一息ついたタイミングを見計らい、湯気を立てるカップを置いた。

 一ノ瀬くんは眼鏡を軽く押し上げ、立ち上る香りをゆっくりと吸い込んだ。

「……香りが、昨日よりも僅かに鋭いな。抽出の温度を上げたのか」

「えっ……。はい、少しだけ。今日は風が涼しいので、飲み終えるまで温かさが続くようにと思って」

 一ノ瀬くんは驚いたように私を見た。その瞳は、解析対象を観察する冷徹なものではなく、純粋に「心地よさ」を受け入れた客としての温かみを帯びていた。

「……配慮に感謝する。志乃さんの淹れる珈琲は、完璧な沈黙そのものだったが。……君の淹れる一杯には、何というか……『意思』のようなものを感じるな」

「意思……ですか?」

「ああ。……不快なノイズではない。読書を妨げない程度の、穏やかな体温のようなものだ。……悪くない」

 彼はそう言うと、満足げに珈琲を一口啜り、再び本へと視線を戻した。

 執着や独占欲といった激しい感情など、今のこの場所には存在しない。

 あるのは、店番としての私と、一人の読書家としての彼。そして、それらを琥珀色に繋ぎ合わせる、一杯の珈琲だけだ。


 午後の時間が、砂時計からこぼれる砂のように静かに流れていく。

 一ノ瀬くんは、時折カップを口に運びながら、一定のリズムでページをめくり続けている。

 私はその姿を、カウンターの向こう側から、適度な距離を保って見守っていた。

 学園での彼は、あまりに優秀で、あまりに近寄り難い存在だ。けれど、こうして静寂を共有していると、彼もまた、自分だけの居場所を必死に守ろうとしている一人の高校生なのだということが、不思議と伝わってくる。

 一時間ほど経った頃、一ノ瀬くんがゆっくりと本を閉じた。

「……ご馳走様。良い時間が過ごせた」

 彼は立ち上がり、会計のためにカウンターへやってきた。

「ありがとうございました。一ノ瀬くん、本は進みましたか?」

「……おかげさまで。物語の核心に近づくことができたよ」

 彼は僅かに口角を上げ、穏やかな会釈をして店を出て行った。

 カランコロン、というベルの音が、どこか祝福のように店内に響き渡る。

 去り際の一ノ瀬くんの背中は、学園で見せる尖った知性よりも、ずっと柔らかく、満ち足りて見えた。

 志乃さんの言った通りだ。

 完璧な正解を出さなくても、ただそこに在ることを許すだけで、人は救われるのかもしれない。

 私は空になったカップを片付けながら、自分の指先に残る温もりを、静かに噛み締めていた。


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