第二十一話:偶像の摩耗と、夜の逃避行
放課後を告げるチャイムが学園の喧騒に溶け込むのと同時に、如月奏くんはいつものように完璧な「王子様」の微笑みを身に纏い、校門の前に待機していた黒塗りの送迎車へと吸い込まれていった。
(……如月くん、今日もあんなに囲まれて。仕事、大変なんだろうな)
私は校舎の窓から、走り去る車の残像をぼんやりと見送った。学園の太陽として、一分の隙もなく輝き続けることを宿命づけられた彼。その重圧がどれほどのものか、今の私には想像することしかできない。
送迎車の分厚いスモークガラスの向こう側で、奏くんは深くシートに身を沈めていた。
けれど、彼に息をつく暇など与えられない。
「奏くん、今のうちにSNS用の自撮りお願い。ハッシュタグはこれね」
「次の現場まであと十五分。ラジオ用のボイスコメント、車内で録っちゃいましょう」
マネージャーの矢継ぎ早な指示に、奏くんは脳を通さず、筋肉の記憶だけで口角を上げる。スマートフォンのレンズに向けられる、曇りのない「如月奏」としての瞳。
(……笑え。期待に応えろ。光り輝け)
頭の中にこびりついた強迫観念が、彼の精神を薄く、鋭く削り取っていく。
撮影スタジオ、ラジオ局、そして深夜にまで及んだ雑誌のインタビュー。
何千回というフラッシュを浴び、何万という無責任な熱狂をその身に受け止めるたびに、彼の中にある「人間」としての芯が、音を立てて砂のように崩れ落ちていく感覚に陥る。
日付が変わる頃、ようやく解放された彼は、自宅マンションの少し手前で送迎車を降りた。
「……少し、歩きたいんだ。頭を冷やしたくて」
そう言ってマネージャーを振り切り、彼は夜の帳に包まれた路地裏へと足を踏み入れた。
同時刻、深夜の『喫茶 琥珀』。
誠司さんは志乃さんの病院に付き添うため、一足早く店を出ていた。
「陽葵、戸締まりだけはしっかりな。……今日はもう客は来ないだろうが」
そう言い残した誠司さんの言葉通り、店内には私一人だけが残り、明日の準備と後片付けを進めていた。
ジャズのレコードを止め、メインの照明を落とす。琥珀色の残り火のような間接照明だけが、カウンターを静かに照らしている。
(……よし、これで終わり。あとはゴミを出して——)
カランコロン。
静寂を裂いて、ドアベルが微かに鳴った。
驚いて入り口を振り返ると、そこにはパーカーのフードを深く被り、肩を震わせながら立ち尽くす奏くんの姿があった。
「如月……くん? どうして、こんな時間に」
「…………」
奏くんは何も答えず、おぼつかない足取りでカウンターまで辿り着くと、崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。
フードの奥から覗く彼の瞳は、光を失い、ひどく摩耗していた。
「……終わったよ。……今日も、如月奏を……完璧に、やり切ってきた」
その声は、掠れて、今にも消えてしまいそうだった。
学園でも、テレビの中でも見せることのない、剥き出しの疲弊。誰にも言えない本音が、深夜の『琥珀』という名の避難所で、ようやく外へと漏れ出したようだった。
私は、志乃さんから授かった攻略法——「一人の人間として接する」という言葉を思い出した。
(今の彼に必要なのは、アイドルとしての称賛じゃない)
「……お疲れ様。奏くん」
私は「如月くん」ではなく、あえて彼の名前を呼んだ。
奏くんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに力なく視線を落とした。
「……奏くん。今、あなたの疲れを溶かす、特別なやつ淹れるからね。少しだけ、待ってて」
私は志乃さんのレシピにあった、深夜にだけ許されるミルク珈琲の準備を始めた。
温めたミルクの柔らかな白。そこに、深煎りの豆の濃厚なエキスをゆっくりと落としていく。仕上げに、志乃さんの栞にあった「秘密の蜂蜜」をひとさじ。
偶像として燃え尽きそうな彼を、優しく包み込み、眠りへと誘うような、穏やかな温かさ。
「……はい。奏くん、これ飲んで」
湯気を立てるカップを、彼の冷え切った指先の前に置いた。
奏くんは震える手でそれを包み込み、立ち上る湯気に目を細めた。
「……温かい。……志乃さんの珈琲はいつも苦かったのに、君の淹れるこれは……すごく、優しい味がする」
一口啜るごとに、彼の強張っていた肩の筋肉が、ゆっくりと解きほぐされていく。
沈黙が心地よく店内に満ちていく。
ここでは、誰も彼に「如月奏」を求めない。
ただ珈琲を飲み、呼吸を整える。その当たり前の日常が、今の彼にとっては唯一の救いだった。
「……ありがとう、陽葵」
奏くんは最後の一滴を飲み干すと、ふっと憑き物が落ちたような、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ここに来ると、自分がただの人間だって思い出せる。……明日もまた、如月奏として笑える気がするよ」
彼は立ち上がり、フードを被り直した。
カウンターに置かれた空のカップ。そこには、一人の少年が自分を取り戻した確かな痕跡が残っていた。
「……おやすみ、陽葵。また、明日」
奏くんは夜の闇へと、静かに消えていった。
私はその背中を見送りながら、志乃さんの言葉の意味を、深く噛み締めていた。
琥珀色の静寂の中で、私の淹れた一杯が、誰かの魂を繋ぎ止めている。
その確かな手応えが、私の胸を温かく満たしていった。




