第二十話:聖域の再鳴と、志乃の隠し味
お見舞いを終えて一夜明けた学園の朝は、昨日までとは明らかに違う色彩を帯びていた。
校門をくぐり、いつものように肩をすぼめて「背景」になりきろうとする。けれど、私の胸の奥には、志乃さんから授かったレシピ入りの栞が、確かな重みを持って収まっていた。
(……存分に振り回しなさい、か。志乃さん、無茶苦茶だよ)
苦笑しながら教室に入ると、案の定、視線の集中砲火を浴びた。
窓際の一ノ瀬くん、廊下側の橘くん。彼らは私が入室した瞬間にぴたりと動きを止め、言葉を交わすことさえ忘れたように、じっとこちらを凝視している。
そんな重苦しい空気の中、三浦くんは他の女子生徒のグループに混ざって、「あ、そのノート助かったわ。サンキュ」と軽い調子で笑い合っていた。彼は特定の誰かに執着することなく、誰に対しても等しく「おせっかい」を焼き、日常を謳歌している。
一方、私一人に翻弄されて余裕を失っている王子様たちの視線は、三浦くんのその「当たり前の日常」とは対極にある、ひどく熱くて重いものだった。
一ノ瀬くんが眼鏡を指で押し上げ、私の顔をじっと覗き込む。
「……佐倉さん。昨日の『不在』について、君の論理的な説明を求めたい。……志乃さんの元で、何を吹き込まれてきた?」
「……ふふ、秘密です。一ノ瀬くん」
私は志乃さん譲りの余裕で、彼の追及をさらりと受け流した。
背景でいたいという願いは変わらない。けれど、彼らが求めているのが「志乃さんの影」ではなく、今この場所で働く「私」なのだとしたら。
私は、逃げるのをやめて、店員として彼らと向き合う覚悟を決めていた。
放課後。石畳の路地を抜け、蔦の絡まる『喫茶 琥珀』の扉を押し開ける。
「……誠司さん、ただいま戻りました」
カウンターの奥で、誠司さんはいつも以上に深い皺を眉間に刻んでいた。
「……陽葵。二度と無断で……いや、あらかじめ断っていたとはいえ、一人の時にあいつらを寄越すな。昨日一日で、一ヶ月分の殺気を使い果たした気分だ」
「あはは……すみません、誠司さん。お礼に、今日は私が精一杯働きますから」
私は手早くエプロンを締め、志乃さんの栞をポケットに忍ばせた。
開店から間もなく、示し合わせたように四人が現れた。
如月くん、一ノ瀬くん、橘くん。そして、一番隅の席に音もなく腰を下ろしたのは——世界的な天才ピアニスト、千ヶ崎響くんだ。
店内の空気が、一瞬で張り詰める。
それぞれが昨日の「不在」への不満を無言で訴える中、私はまず、最も接触が少なく、そして最も頑なに見える響くんの席へと向かった。
彼の前には、志乃さんが彼のために用意した、一点ものの「青いカップ」が置かれている。
「……千ヶ崎くん。昨日はお休みして、すみませんでした」
私が水を置くと、響くんはピアノを叩くようなリズムで机を指先で叩いた。
「……音が、なかった。昨日のこの場所は、ただのノイズに満ちた箱だったよ」
響くんの声は冷たく、けれどどこか縋るような響きがあった。
「……今日は、志乃さんから託されたものがあるんです。千ヶ崎くんに、飲んでほしいって」
私はカウンターに戻り、志乃さんの栞に記された「隠し味」を再現し始めた。
完璧な「正解」を求められ、楽譜の通りに弾かなければならないプレッシャー。そんな彼が子供の頃、志乃さんの店で唯一「わがまま」を言えた、あの味。
「……はい。志乃さんの、思い出の味です」
青いカップに注がれた、琥珀色の液体。
響くんは慎重に一口、それを啜った。
「…………っ」
瞬間に、彼の長い睫毛が震えた。完璧主義を貫く彼の仮面が、音を立てて崩れ去る。
「……この、甘い余韻。……志乃さんが、僕がコンクールで負けた時にだけ淹れてくれた……」
響くんはカップを両手で包み込み、そのまま沈黙した。
「……ずるいな。君は、僕が一番欲しかった音を、いとも簡単に作り出してしまう」
響くんが呟いたその言葉は、店内の他の三人の耳にも届いていた。
「……おい、俺にはそんなのなかったぞ! 佐倉、俺のまじないはどうしたんだよ!」
橘くんが身を乗り出し、カウンターを叩く。
「……同意せざるを得ない。特定の客にのみ特別な処置を施すのは、公平性を欠く」
一ノ瀬くんが、嫉妬を論理で武装しながら詰め寄ってくる。
「……僕にも、それを淹れてよ。今の僕なら、それだけで一週間は笑っていられるから」
如月くんが、フードの奥から切実な視線を送る。
私は志乃さんの言葉を思い出し、ふふ、といたずらっぽく笑ってみせた。
「……志乃さんに言われました。皆さんは、手が焼ける弟みたいなものだから、存分に振り回しなさいって」
その瞬間、王子たちの動きが止まった。
「弟……!?」「……解析不能な分類だ」「誰が弟だ、佐倉!」
三者三様の、けれど一様に余裕のない反論が飛び交う。
自分たちが喉から手が出るほど欲しい「特別」を、陽葵が「志乃から託された慈愛」として、あまりに軽やかに、そして包容力を持って提供し始めたことへの動揺。
「……陽葵、お前……」
誠司さんの低い声さえも追い越して、四人の視線が、かつてないほど熱く私に集中する。
琥珀色の静寂は、もう戻らない。
けれど、私は栞を握りしめ、彼らを「攻略対象」として見つめ返すだけの、新しい強さを手に入れていた。
私は、戸惑う彼らを置き去りにするように、次の珈琲を淹れる準備を始めた。




