第十九話:再会の扉と、お茶目な最強の味方
五月二十日、水曜日。
放課後の学園は、部活動の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が入り混じり、独特の熱気を帯びていた。けれど、私の心はそんな喧騒から遠く離れた場所、消毒液の匂いが漂う白亜の建物へと向かっていた。
(……誠司さん、お店任せちゃってごめんなさい。でも、今日だけは……)
私は校門を駆け抜け、誠司さんに指定された老舗の和菓子屋へと急いだ。志乃さんの大好物である「特製レーズンサンド」を無事に購入し、大事に抱えるようにして病院行きのバスに乗り込む。
揺られる車内、窓の外を流れる景色を見つめながら、私は自分の不甲斐なさを反芻していた。
誠司さんが守り抜いてきた『琥珀』。そこへ、学園の王子様たちが次々と居着くようになり、挙句の果てには一ノ瀬くんに「解析不能なバグ」だなんて詰め寄られて。昨夜の三浦くんの「あんたの背景設定、ボロボロだよ」という言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインしている。
(志乃さんが大切に育ててきた教え子たちを、私がかき乱してしまっているんじゃないかな……。合わせる顔がないよ……)
どん底の気分で病院に到着し、重い足取りで病室の前まで辿り端いた。
『佐倉 志乃』
プレートに書かれた名前に、指先が微かに震える。私は一度、深く深呼吸をして、覚悟を決めてドアをノックした。
「……失礼します」
静かに扉を開けた先、午後の柔らかな光が差し込む病室。
そこにいたのは、真っ白なシーツに身を預け、手元のファッション雑誌を熱心にめくっている一人の女性だった。
「あら……? その、おどおどした歩き方……陽葵ね?」
顔を上げた女性——志乃さんは、やつれてはいるものの、その瞳には驚くほど生き生きとした輝きが宿っていた。
「志乃、さん……っ!」
私は我慢できず、ベッドの傍らまで駆け寄った。視界が急激に滲み、堪えていたものが決壊する。
「志乃さん、よかった……。本当に、意識が戻ってよかったです……っ!」
「まあまあ、陽葵。相変わらず泣き顔がブサイクねぇ。はい、ティッシュ」
志乃さんは困ったように笑いながら、枕元の箱からティッシュを一枚抜き取って私の鼻先に押し当てた。
感動の再会。もっと涙ながらの、しっとりとした会話が続くと思っていた私は、その拍子抜けするほどの明るさに、思わず鼻をすすりながら顔を上げた。
「……志乃さん、お元気そうですね?」
「死にかけた甲斐があったわ。毎日退屈で死にそうだったから。それより陽葵、誠司さんに頼んだレーズンサンド、持ってきた?」
「あ、はい! これです」
私が紙袋を差し出すと、志乃さんは「さすが私の愛弟子!」と、少女のような手つきで袋を開け、芳醇なバターの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
しばらくの間、志乃さんがレーズンサンドを幸せそうに頬張るのを眺めながら、私は少しずつ、最近の『琥珀』の状況を話し始めた。
誠司さんが一人で頑張っていたこと。私が無理を言ってバイトをさせてもらっていること。
そして——。
「……あの、志乃さん。実は、お店に……学園の如月くんや一ノ瀬くん、それに橘くんと千ヶ崎くんが来るようになったんです」
志乃さんの手が、止まった。
私は、自分が彼らを「背景」としてやり過ごせず、むしろ彼らの孤独に触れてしまったこと、そのせいで店内の空気が変わってしまったのではないかと、溜め込んでいた不安を一気に吐き出した。
「一ノ瀬くんには『解析不能なバグ』だなんて言われるし、如月くんはボロボロな姿を見せてくるし……。私、志乃さんの大切なお店を、めちゃくちゃにしてるんじゃないかって……」
私がうつむいて震えていると、静寂が病室を包んだ。
怒られるだろうか。それとも、呆れられるだろうか。
固唾を呑んで待っていると、突然。
「……っ、ふふっ。あはははは! おかしい、最高におかしいわ、陽葵!」
志乃さんが、お腹を抱えて笑い出したのだ。
「志乃さん……?」
「あらあら! あの偏屈で理屈っぽい蓮くんに、無愛想で直球な駆くん、キラキラを背負いすぎて窒息しそうな奏くん、それに正解を求めすぎて迷子になってる響くんまで? 全員まとめて陽葵の毒牙にかかっちゃったのね!」
「ど、毒牙だなんて人聞きが悪いです! 私はただ、精一杯珈琲を淹れてるだけで……」
「それが一番の毒なのよ。あの子たちはね、自分の才能や肩書きを見ない『誰か』に飢えていたの。それを、こんなお人好しでドジな陽葵が、無自覚に振り回してるんだから……想像しただけで痛快だわ!」
志乃さんは涙を拭いながら、悪戯っぽく私を指差した。
「いい、陽葵。悩みなんて放り出しなさい。あの子たちが何か失礼なことや、重たすぎる愛をぶつけてきたら、全部私に報告するのよ。私が病室から遠隔で、あの子たちの攻略法を伝授してあげるから」
「攻略法……?」
「そう。あの子たちの弱点はね、私が一番知ってるんだから。……例えば、響くんが殻に閉じこもりそうになったら、あえて下手な鼻歌でも聴かせてやりなさい。完璧主義のあの子は、きっと顔を真っ赤にしてツッコミを入れてくるわよ」
志乃さんの言葉に、私の心の霧が、少しずつ晴れていくのを感じた。
恩師は、彼らが陽葵に執着することを「間違い」だとは言わなかった。むしろ、それを新しい『琥珀』の形として、誰よりも面白がって受け入れてくれたのだ。
「あなたはただ、あの子たちを存分に転がしてあげればいいの。それが今のあの子たちにとって、一番の薬なんだから。……はい、これはご褒美よ」
志乃さんは棚の引き出しから、古びた栞を一枚取り出し、私の手に握らせた。
「そこに書いたのは、あの子たちが幼い頃に好きだったお菓子の隠し味。……いつか、どうしてもあの子たちが言うことを聞かなかったら、これで胃袋を掴みなさい」
最強の味方、あるいは最強の共犯者。
志乃さんの悪魔的な微笑みに、私は圧倒されながらも、「はい!」と力強く頷いた。
その頃、私がいない放課後の『琥珀』。
西日が斜めに差し込む店内には、例を見ないほどの重苦しい沈黙が漂っていた。
カウンターには一ノ瀬蓮、如月奏、練習終わりの橘駆、そしていつの間にか隅の席に座っていた千ヶ崎響。学園の王子様たちが四人も揃っているというのに、黄色い歓声どころか、そこには氷河期のような冷気が渦巻いている。
「……おい。あいつ、今日はいないのか」
橘駆が、不機嫌そうに誠司さんを睨みながら口を開いた。
誠司さんは、いつにも増して険しい表情で、鋭い手つきでカップを磨いている。
「……陽葵は休みだ。文句があるなら帰れ」
「文句じゃねーよ。……ただ、あいつがいねーと、この店、ただの怖いおっさんの店だな」
駆のボヤキが、静まり返った店内に響く。
「……同意するよ。解析すべき対象が不在では、ここはただの古びた空間に過ぎない」
一ノ瀬蓮が、冷めた珈琲をじっと見つめながら淡々と付け加える。
「……うるさい。君たちも、彼女がいなければただの騒がしいガキじゃないか」
如月奏が、フードの奥から低い声で毒を吐く。
「……音が、足りない」
千ヶ崎響が、ピアノを叩くように机を指で鳴らし、苛立ちを隠さずに呟いた。
陽葵という「緩衝材」を失った『琥珀』は、店主の殺気と王子たちの互いへの敵意がむき出しになる、一触即発の戦場と化していた。
「……何か言ったか、貴様ら」
誠司さんがカウンター越しに四人を一喝するように見据えると、四人の背筋が同時に凍りついた。
志乃さんの病室で笑い声を上げている陽葵は、まだ知らない。
自分がいないわずか数時間の間に、自分が守りたかった「聖域」が、自分への執着を剥き出しにした男たちの檻に変わろうとしていることを。




