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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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第十八話:静寂の侵食と、一ノ瀬蓮の解析

 学園の朝は、図書室の重厚な扉が開く音と共に始まった。

 私は図書委員の早朝当番として、誰よりも早くこの静寂の聖域に足を踏み入れる。窓から差し込む斜光が、無数の書架が並ぶ通路を等間隔に切り取り、浮遊する埃の粒子を白く輝かせていた。

(……よし。誰も来ないうちに、これだけは整理しておこう)

 私はカウンターの隅で、一冊の小さなノートを開いた。

 それは、明日の放課後についに再会できる志乃さんへの「報告ノート」だ。誠司さんから「お前の淹れた珈琲の味がどう変わったか、志乃が楽しみにしてる」と言われてから、私は店での出来事を細かく書き留めるようにしていた。

 失敗したこと、誠司さんに叱られたこと。そして、名前こそ伏せているけれど、あの日以来『琥珀』に居着くようになった、奇妙な常連客たちのこと。

(一ノ瀬くんはいつも難しい本を読んでて、如月くんは死にそうな顔で珈琲を飲んで、橘くんは泥だらけで……。あ、三浦くんのことはなんて書こう。「隣の席の、おせっかいな人」かな?)

 ペンを走らせるたびに、胸の奥が温かくなる。

 志乃さんが守ってきたあの場所を、今は私が、私なりのやり方で繋いでいる。その事実は、背景として透明に生きることを良しとしてきた私にとって、初めて手に入れた「自分自身の輪郭」のような気がしていた。


 カチャリ、と静かな音がした。

 図書室の入り口。まだ開館時刻には数分あるはずなのに、一人の人影が音もなく滑り込んできた。

 私は慌ててノートを閉じ、背筋を伸ばした。

「……おはようございます。開館は……」

 言いかけて、言葉が喉に張り付いた。

 そこに立っていたのは、眼鏡の奥に冷徹な知性を宿した、一年C組の秀才——一ノ瀬蓮くんだった。

 彼はいつもなら、私の存在など視界の端にも入れず、お目当ての書架へと直行する。だが今日の彼は違った。

 一ノ瀬くんは真っ直ぐに、迷いのない足取りで図書委員のカウンターへと歩み寄ってきた。

「……おはよう、佐倉さん。早朝から熱心だね」

 その声は、学園で聞くいつもの淡々とした響きだった。けれど、私を見つめる瞳には、未知の難問を前にした数学者のような、執拗で逃げ場のない光が宿っている。

「え、ええ……。当番、ですから。……一ノ瀬くん、何かお探しですか?」

「探し物なら、もう見つけている」

 彼はカウンターに細い指先を置き、トントン、と一定のリズムを刻んだ。

「……昨日の放課後、如月奏に会ったよ。……彼、撮影現場で一度もNGを出さず、予定より二時間も早く仕事を終えたそうだ。周囲は『神がかった集中力だ』と騒いでいたが……。僕には、彼がただの空っぽの偶像から、人間らしい温度を取り戻したように見えた」

 私は息を呑んだ。

 一ノ瀬くんは、あの『琥珀』に流れる静寂を誰よりも愛している。そして、その静寂を構成する要素の変化に、驚くほど敏感だ。

「……君は、日曜日、あそこで一人だったね。……如月に、何を飲ませた?」

「……ただの、一番苦い珈琲ですよ。誠司さんがいつも出している、あの味を真似して……」

「嘘だ」

 一ノ瀬くんが、わずかに身を乗り出した。

 彼の綺麗な顔が近づき、微かな紙の匂いと、微熱のような圧迫感が私を包み込む。

「……誠司さんの珈琲は、完璧な沈黙だ。だが、君が淹れるそれは違う。……君という不確定要素が、あの店に『安らぎ』という名のノイズを混入させている。……如月は、それに毒されたんだ」

「毒だなんて……。私は、ただ一生懸命に働いてるだけで……」

「その『一生懸命』が、僕にとっては解析不能なバグなんだよ、佐倉さん」

 一ノ瀬くんの声が、一段と低くなった。

 彼はカウンター越しに、私の手元にあるノートに視線を落とした。

「……君は自分を『背景』だと定義し、この学園での存在確率を最小化しようとしている。……だが、それは矛盾だ。……一度でも、あんな風に誰かの欠落を埋めるような温度を見せておいて、今更ただの風景に戻れると思っているのか」

「…………っ」

 私は反論できなかった。

 彼の指摘は、あまりに論理的で、そしてあまりに私の痛いところを突いていた。

 私は彼らの前から消えたかった。透明なままでいたかった。

 けれど、彼らが『琥珀』で見せるあの寂しげな素顔を放っておけなかったのも、また事実なのだ。

「……明日の放課後、店にはいないそうだな」

 一ノ瀬くんが、唐突に話題を変えた。

「えっ、あ、はい。……志乃さんのところへ、お見舞いに行くので」

「……そうか。志乃さんによろしく伝えてくれ。……それと」

 彼は一度言葉を切り、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

「……君がいない間の『琥珀』が、元の静かな喫茶店に戻るのか。……それとも、僕が耐えられないほどの空虚に変質するのか。……明日、確かめに行こうと思う」

 一ノ瀬くんはそれだけを言うと、一冊の本も手に取ることなく、踵を返して図書室を去っていった。

 残されたのは、凍りついたような空気と、私の激しい鼓動だけ。

(……何、今の。確かめるって、何を……?)


 休み時間になり、教室に戻ると、そこには図書室の張り詰めた空気とは正反対の、緩やかな日常があった。

「あ、それ重くない? 持ってあげるよ」

 クラスの女子が掃除用具を運んでいるのを見て、隣の席の三浦翔太くんが、ごく自然な動作でひょいとバケツを取り上げた。

「えっ、いいの? ありがと三浦くん!」

「いーよいーよ。これくらい」

 三浦くんはチャラい帰宅部らしく、誰にでも気さくに声をかけ、困っている子がいればおせっかいを焼く。それは特定の誰かへの執着ではなく、彼にとってはクラスメイト全員に対する日常の風景に過ぎない。

 用具を戻して戻ってきた三浦くんは、私の席の横で足を止めた。

「よっ。佐倉さん、さっき図書室で一ノ瀬と密談してたでしょ。あいつ、必死な顔してたけど、またなんか難しいこと言われた?」

「えっ、見てたの……?」

「たまたま通りかかっただけ。……あいつ、頭良すぎるのも考えもんだよね。たかが隣の席の子に話しかけるだけなのに、なんであんなに余裕ないわけ?」

 三浦くんは面白そうに首を振ると、自分の机に腰掛けて、他の女子から差し出されたお菓子を平然と受け取った。

 三浦くんのその、誰にでも等しく向けられる「おせっかい」と、驚くほど自然な距離感。

 それとは対照的に、私一人に対して「解析」や「空虚」といった重い言葉を投げつけ、一歩も動けずにいる王子様たち。

(三浦くんは、あんなに普通にみんなと話せるのに……。どうして一ノ瀬くんたちは、あんなに……)

 三浦くんの持つ、圧倒的なまでの「日常の余裕」。

 それが、王子様たちが抱える歪な独占欲を、より鮮明に浮き彫りにさせていた。

 三浦くんは私の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。

「ま、頑張りなよ、佐倉さん。あんたの『背景』設定、あいつらのせいでボロボロだけどさ。……ほら、消しゴム落ちてるぞ」

 三浦くんが床に落ちていた私の消しゴムを拾い上げ、ポンと私の机に置く。その動作は、他の女子にバケツを貸した時と全く同じ、フラットな親切だった。

 背景でいたい。透明でいたい。

 そう願っていたはずの私の世界は、一ノ瀬くんの解析という名の執着と、三浦くんの予測不能な日常の侵食によって、修復不可能なほどにひび割れ始めていた。

 窓の外では、朝の予鈴が鳴り響いた。

 学園の騒がしい一日が始まる。

 けれど、私の心は、明日の志乃さんとの再会への期待と、一ノ瀬くんから突きつけられた重い問いの間で、琥珀色の闇へと沈み込んでいくようだった。


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