第一話:春の陽だまりと、遠すぎる銀河
四月。新入生の制服がまだ体に馴染みきっていない、独特の浮ついた空気が廊下に満ちている。
私立星華学園。進学、スポーツ、そして芸術。あらゆる分野の「頂点」を目指す若者が集うこの学び舎において、私、佐倉陽葵の目標はただ一つだった。
(……よし、今日も完璧に気配が消せてる)
一組三十五人の教室。窓際の後ろから二番目という、日当たりだけは良いものの、教卓からもクラスの輪からも絶妙に外れた「死角」が私の定位置だ。
私は机に広げた古文の単語帳に目を落としながら、周囲の喧騒をBGMとして聞き流していた。
入学から一週間。この学園には、普通の高校生とは明らかに「質」の異なる存在が四人いる。生徒たちが畏敬を込めて、あるいは熱狂を伴って囁く、四人の王子様たちだ。
「ねえ、見た!? 今、廊下を如月奏くんが通ったんだけど!」
「キャー! やっぱり生で見るとオーラが違うよね……。あの顔で歌って踊るとか、同じ人類とは思えないわ」
黄色い歓声が、教室の温度を数度上げている。
如月奏。私と同じ一年C組に籍を置きながら、既に国民的な人気を誇るアイドルのセンターだ。彼が廊下を通るたびに、まるでモーゼの十戒のように人だかりが割れ、後にため息の轍が残る。
彼は常に完璧な笑顔を浮かべ、ファンサービスを欠かさない。けれど、ふとした瞬間に見せるその瞳は、どこか魂が抜けたような、乾いた光を宿していることを、私は窓越しの反射で知っていた。
そして、その喧騒から数メートル。同じ教室の窓際、最前列の席には、もう一人の「有名人」が座っている。
一ノ瀬蓮。全国模試で常に一桁台をキープし、いくつもの国際コンクールを総なめにしてきたという秀才。彼はクラスメイトたちがどれほど騒ごうとも、眼鏡の奥の瞳をピクリとも動かさず、厚い専門書をめくっている。
彼の周囲には、不可視の防壁が張り巡らされているかのようだ。誰一人としてその聖域に踏み込むことは許されず、ただその横顔の美しさと、機械のような正確さに溜息を漏らすことしかできない。
ふと、校庭の方から地響きのような歓声が上がった。
窓から下を覗くと、野球部の練習が始まろうとしていた。その中心にいるのは、橘駆。一年生にして名門野球部のエースナンバーを背負う、プロ注目の逸材だ。
泥にまみれたユニフォーム姿でも、彼の持つ野性的な生命力は隠しようがない。一球投げるごとに空気が震え、周囲の先輩たちですら圧倒されるような威圧感を放っている。彼は常に「勝利」という重圧を背負い、牙を剥く獣のような鋭い視線をミットへと突き刺していた。
さらに、校舎の反対側。特別棟の音楽室からは、微かにピアノの旋律が流れてくる。
千ヶ崎響。世界を股にかける若き天才ピアニスト。彼は滅多に教室には現れない。音楽室の奥で、誰にも届かない旋律を奏で続けている。
彼の弾くピアノは、あまりに美しく、あまりに冷たい。一度その音を聞けば、誰もがその繊細な指先に触れたくなるが、彼は決して心を開かない。まるでガラス細工のような危うさを秘めた、孤独な芸術家。
(あっち側は、キラキラした銀河系。こっち側は、ただの道端の雑草……。うん、この距離感が一番落ち着く)
私は心の中でそう頷き、単語帳をめくった。
彼ら四人は、この学園の象徴だ。太陽のように、あるいは月のように、遠くから眺めている分には美しいけれど、近づけばその熱や冷たさに焼かれてしまう。
派手なグループに属して、彼らの噂話に花を咲かせる体力は、今の私にはない。私はただ、この平穏な「背景」としての日常を守りたかった。
不意に、教室の扉が勢いよく開いた。
「おい、そこ! 予鈴五分前だ。いつまで騒いでいる!」
鋭い声と共に現れたのは、担任の長谷川先生だった。ビシッとアイロンの効いたスーツに身を包み、縁なしの眼鏡を光らせる彼女は、この学園でも指折りの「鉄の女」として恐れられている。
「如月のファンは自分の教室へ戻れ! 一ノ瀬の周りでたむろするな! いいか、この学園に『特別』な生徒などいない。どんなに有名だろうと、ここではただの一年生だ。浮ついた空気は門の外に置いてこい!」
長谷川先生の喝に、教室内は一瞬で静まり返った。
如月くんは「すみません、先生」と困ったような、けれど完璧な王子様の笑顔で謝り、一ノ瀬くんは無言で本を閉じた。
長谷川先生は厳しい視線を教室全体に走らせ、最後に、窓際で息を潜めている私と一瞬目が合った。
彼女は何も言わなかったけれど、その瞳は「お前だけは、この平穏を乱すなよ」と言っているような気がした。
(大丈夫です、先生。私は透明人間ですから)
私は心の中でそう答え、数学の教科書を取り出した。
それからの時間は、ひたすら自分を消す作業だった。
数学、英語、国語。教師の言葉を淡々とノートに写し、指名されないように気配を断つ。
休み時間になれば、如月くんの席へ群がる女子たちの背中越しに、廊下の隅を歩いてトイレへ向かう。
一ノ瀬くんが図書館へ向かう姿を見送ってから、反対側の非常階段で一息つく。
彼らが放つ光が強ければ強いほど、その陰に隠れる私の「背景」としての輪郭は、より鮮明に、より安定したものになっていく。
この学園は、あまりに眩しすぎる。
けれど、門を一つ出れば、そこには私の知っている日常が広がっているはずだ。
私は終礼のベルが鳴るのを、祈るような気持ちで待っていた。
ようやく放課後を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、私は誰よりも早く鞄を手に取った。
部活動の勧誘に熱を上げる上級生、駅前のパンケーキ屋に誘い合う華やかな女子グループ、そしてレッスンへ向かうアイドルの送迎車を待つ出待ちの列。
それら全ての喧騒を背中に受けながら、私は最短ルートで校門へと突き進む。
誰とも視線を合わせず。
誰の声にも耳を貸さず。
ただ、自分の足音だけを頼りに。
校門を一歩出た瞬間。
肺の奥に溜まっていた熱い空気を、一度に吐き出した。
「……ふぅ」
振り返れば、夕陽に染まった学園の校舎が、巨大な城のように聳え立っている。
あの中には、四人の王子様と、彼らを崇める何千人もの熱狂が詰まっている。
でも、そこから一歩外に出れば、私はただの私だ。
誰の視線も浴びない。誰の期待も背負わない。
そんな自由が、何よりも愛おしかった。
「よし。帰ろう」
私はカバンの紐をぎゅっと握りしめ、都会の喧騒を避けるように、慣れ親しんだ古い路地へと足を踏み入れた。
アスファルトが石畳に変わり、ビルの影が古い民家の軒先に溶け込んでいく。
この先の角を曲がれば、私が私でいられる、唯一の場所がある。
今日も、誰にも見つからずに済んだ。
この「背景」としての平穏が、明日も、その次も、ずっと続いていくのだと。
その時の私は、本気でそう信じていた。




