第十七話:日常の亀裂とジョーカーの囁き
五月十八日、月曜日。
週末の静謐な琥珀色の時間は過ぎ去り、世界は再び騒々しい原色へと塗り替えられていた。
私立星華学園の重厚な校門をくぐった瞬間、私は深呼吸を一つして、自分自身の輪郭を曖昧にする。肩をすぼめ、視線を数メートル先の地面に固定し、周囲の喧騒をただの背景音として処理する。
(……大丈夫。昨日、如月くんに見つかったのは、あくまで『喫茶 琥珀』の店員としての私。学校に来れば、私はただの佐倉陽葵に戻れる)
自分にそう言い聞かせながら、私は一年C組の教室へと滑り込んだ。
一時間目の自習時間。教室内には鉛筆が紙をなぞる音と、時折漏れる密やかな私語だけが漂っている。
私は教科書を広げながら、内心で激しく動揺していた。
視線を感じるのだ。それも、一つではない。
斜め後ろ、窓際の席に座る一ノ瀬蓮くん。彼はいつも通り、難解な海外文学に耽っているように見える。けれど、彼がページをめくる指が、時折不自然に止まる。そして、ふとした瞬間に彼が顔を上げた時、その鋭い双眸が私の背中を射抜くように捉えているのが、反射的に分かってしまう。
(一ノ瀬くん……昨日、お店には来なかったはずなのに。どうしてそんなに見てくるの?)
一ノ瀬くんにとって、私は『琥珀』の沈黙を守るための調度品のような存在だったはずだ。だが今の彼の視線には、未知の数式を解き明かそうとする時のような、執拗な探求心が混じっていた。
休み時間になり、移動教室のために廊下へ出ると、今度はさらなる試練が待ち受けていた。
「おっ、佐倉!」
前方から、野球部の面々を引き連れた橘駆くんが歩いてきた。
彼は私を見つけた瞬間、遠くからでも分かるほど顔を輝かせ、大きな声を張り上げようとした。
「昨日、誠司さんの——」
「ひゃ、ひゃいっ!」
私は思わず、変な声を上げて立ち止まった。
周囲の女子生徒たちが、一斉にこちらを振り返る。学園の王子様の一人である橘くんが、クラスの隅にいる「背景」の私に親しげに話しかけるなど、あってはならない事態だ。
橘くんは私の過剰な反応を見て、一瞬きょとんとした。けれど、すぐに周囲の刺すような視線に気づいたのか、口元を歪めてニカッと笑った。
「……いや、なんでもねーわ。またな」
彼はすれ違いざまに、私にだけ見える角度で拳を軽く握ってみせた。それは、昨日の「はちみつレモン」への感謝と、マウンドで見せるような共犯者の合図だった。
私は心臓が口から飛び出しそうなのを必死に抑え、足早にその場を立ち去った。
(やめて、橘くん! 『琥珀』でのことは、あそこの扉を閉めたら全部リセットして……!)
昼休み。私は逃げるように屋上の隅へと避難した。
フェンス越しに広がる街並みを眺めながら、コンビニのパンをかじる。ようやく訪れた一人の時間に安堵した、その時だった。
「……お疲れ、背景さん。今日は一段と顔色が悪いね」
背後からかけられた声に、私は喉を詰まらせそうになった。
振り返ると、そこには三浦翔太くんが、いつものように制服のボタンを外し、気怠げな笑みを浮かべて立っていた。
「み、三浦くん……。なんでここに」
「なんでって、佐倉さんがここで隠れてるのが見えたから。隣、いい?」
彼は私の返事も待たず、狭いベンチに腰を下ろした。
三浦くんは自分の昼食を広げることもなく、ただ私を観察するように薄笑いを浮かべている。
「昨日さ、如月が妙に機嫌いいんだよね。撮影現場で鼻歌歌ってたって、マネージャーが泣いて喜んでたよ。……あんた、昨日あいつに何したの?」
「な、何もしてないよ! 私はただ、注文された珈琲を出しただけで……」
「へぇ、珈琲ね。……如月だけじゃない。一ノ瀬も橘も、今日は朝からあんたの席ばっかり見てる。気づいてないの?」
三浦くんの言葉に、私はパンを握りしめた。
「……気づいてるよ。でも、困るんだ。私はただの背景でいたいのに」
「無理だって、それは。あんたが『琥珀』で見せた顔、あいつらはもう知っちゃったんだから。……隠せば隠すほど、男ってのは暴きたくなるもんだよ。特に、あんな完璧超人な王子様たちはね」
三浦くんはフェンスに寄りかかり、空を見上げた。
「あんたが一生懸命隠そうとしてる『熱』みたいなもんが、あいつらにとっては毒なんだよ。一度味わったら、もう普通の日常には戻れないっていうかさ」
「……三浦くんは、毒じゃないの?」
思わず聞き返すと、三浦くんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから今までで一番不敵な笑みを浮かべた。
「俺? ……俺はほら、毒見役。あんたが王子様に食い散らかされないように、一番近くで面白がってるだけの、ただの隣人だよ」
彼はそう言って立ち上がると、私の頭をポンと軽く叩いた。
「頑張りなよ、佐倉さん。あんたの『背景』設定、もうボロボロだけどさ」
三浦くんが去った後、私は一人、屋上で立ち尽くした。
彼の言葉はいつも意地悪で、けれど残酷なほど真実を突いている。
学園という銀河の中で、私はもう、名もなき星ではいられなくなっているのかもしれない。
放課後。
私は逃げ出すように校門を抜け、いつもの路地裏へと急いだ。
『喫茶 琥珀』の扉を開け、珈琲の香りに包まれた瞬間、ようやく肺の奥まで空気が入るのを感じた。
「……誠司さん、ただいま戻りました」
カウンターの奥では、誠司さんが黙々と豆の選別をしていた。
「……おう。陽葵、明後日の水曜日だが、放課後あけられるか」
「えっ? はい、もちろんです」
「志乃の面会だ。意識が戻ってから、あいつはお前の話を一番に聞きたがっていた。……お前、志乃の好物を覚えているか?」
誠司さんの問いに、私は幼い頃の記憶を辿った。
いつも優しく、私に「自分の居場所を見つけなさい」と言ってくれた志乃さん。彼女が一番大切にしていた、あの甘い香りの——。
「……レーズンサンド、ですか?」
「……ああ。正解だ。病院の近くに、志乃が昔から通っていた店がある。そこで買ってから行くぞ」
「はいっ!」
私は弾けるような笑顔で答えた。
学園での不安、王子様たちの視線、三浦くんの警告。
それら全てを、今は一度脇に置こう。
明後日、大好きな志乃さんに会える。その喜びだけで、私の心は再び琥珀色の温かさに満たされていった。
私はエプロンをきつく締め直し、誠司さんの隣で、誰よりも一生懸命に働き始めた。




