第十六話:琥珀色の孤軍奮闘
五月十七日、日曜日。
雲一つない五月晴れの空からは、初夏を予感させる力強い陽光が降り注いでいた。
私立星華学園の生徒たちが休日を謳歌し、華やかな街へと繰り出す喧騒を遠くに聞きながら、私は路地裏の深い影に佇む『喫茶 琥珀』の重厚な扉を開けた。
「……おはようございます、誠司さん」
カランコロン、という乾いたドアベルの音が、開店前の静まり返った店内に響く。
カウンターの奥では、既にエプロンを締めた誠司さんが、鋭い手つきでネルドリップの準備を整えていた。その背中は昨日よりも心なしか軽く、けれど纏う空気はいつになく張り詰めている。
「……おう。来たか」
誠司さんは振り返ることなく、低い声で応じた。
「志乃の着替えと、あいつが欲しがっていたラジオ、それから身の回りの品を届けてくる。……意識が戻ったとはいえ、まだ予断を許さんからな。午前中は俺が病院に付き添う」
「はい、聞いています。……誠司さん、本当によかったですね」
私が歩み寄ると、誠司さんはようやく手を止め、僅かに充血した目をこちらに向けた。一晩中、病室で志乃さんの手を握り続けていたのだろう。その武骨な指先には、まだ微かな震えが残っているようにも見えた。
「……陽葵。今日はお前に、午前中の店を任せる。いいか、お前一人の責任だ」
「えっ……? 私、一人で……ですか?」
思わず声が裏返った。
昨夜、三浦くんに見守られながら片付けをこなしたとはいえ、それは「閉店後」の作業だ。営業中の店を、それも日曜日の午前中という、本来なら常連客で賑わう時間帯をたった一人で切り盛りするなど、今の私にはあまりに荷が重い。
「……嫌なら今すぐ看板を下ろせ。志乃がいない今、この店を守れるのは俺とお前しかいないんだぞ」
誠司さんの言葉は、突き放すような厳しさの中に、微かな「期待」が混じっているように感じられた。
不器用で、言葉足らずな叔父。けれど、彼が私に店を託そうとしているのは、私が昨夜、逃げ出さずにこの場所を守り抜いたことを認めてくれたからに他ならない。
私はごくり、と唾を飲み込み、自分の胸元で拳を握りしめた。
「……やります。やらせてください。誠司さんは、志乃さんのそばにいてあげてください。ここは、私が……『琥珀』の店員として、しっかり守りますから!」
私の宣言に、誠司さんは鼻でフン、と笑った。けれど、その口角は僅かに上がっていたかもしれない。
「……豆の補充は済ませてある。火の元と戸締まりだけは絶対に忘れるな。……一時間おきに、客の入りをメモしておけ。帰ってきたら確認する」
「はいっ!」
誠司さんは手短に指示を出すと、用意していた大きなカバンを肩に担ぎ、足早に店を出て行った。
再び訪れる、完全な静寂。
私は一人、カウンターの中に立ち、誰もいない客席を見渡した。
昨日までの私なら、この孤独に押し潰されそうになっていただろう。けれど、今は違う。
磨き上げたカウンターの琥珀色、使い込まれた銅製のコーヒーポット、そして志乃さんが愛したジャズのレコード。それら全てが、私の味方であるように思えた。
「よし……。まずは開店準備、やり直し!」
私は自分に気合を入れるように頬を叩き、誠司さんの動作を思い出しながら、店内の隅々まで掃除を開始した。
午前十時。開店を告げる看板を出し、私はカウンターの定位置についた。
最初のお客様は、近所に住む常連の山田さんだった。
「おや、今日は誠司さんはお休みかい?」
「はい、ちょっと病院まで。今日は私が代わりを務めさせていただきます、山田さん」
努めて明るく、けれど『琥珀』の空気を壊さない穏やかなトーンで応じる。
山田さんは驚いたように目を丸くしたが、私の淹れた——誠司さんには到底及ばないけれど、心を込めた——ブレンドを一口啜ると、満足げに目を細めた。
「……うん。誠司さんの味とは少し違うけれど、丁寧な味がするよ。頑張りなさい、お嬢さん」
「ありがとうございます!」
その一言が、どれほど私の支えになったことか。
それから数時間、客足は絶え間なく続いた。注文を聞き、豆を挽き、お湯を注ぐ。
一人でこなす作業は想像以上に過酷で、何度も足がもつれそうになり、トレイの上でカップがカチャリと音を立てるたびに冷や汗が流れた。
けれど、私は無責任に逃げ出すわけにはいかなかった。
今、この瞬間、私はこの店の顔なのだ。
正午を過ぎ、客足がふっと途切れた昼下がり。
心地よい疲労感と共に、私はカウンターを拭いていた。
カランコロン。
軽やかなドアベルの音が、微睡み始めていた店内の空気を揺らした。
「いらっしゃいませ……っ」
顔を上げた私の視線が、入り口で立ち止まった人影とぶつかる。
そこには、深いフードのパーカーを頭から被り、大きなサングラスで顔の半分を覆った少年が立っていた。
一見すれば不審者そのものだが、その立ち姿、纏っている圧倒的なオーラを、私が見間違えるはずがなかった。
「……如月、くん?」
私が掠れた声で呼ぶと、人影は僅かに肩を震わせ、ゆっくりとサングラスを外した。
そこにあったのは、国民的アイドルとして毎日テレビで見かける完璧な美貌——ではなく、酷くやつれ、クマの浮き出た、一人の少年の素顔だった。
「……なんだ。今日は、君一人か」
如月奏くんは、消え入りそうな声で呟いた。
彼はフラフラとした足取りで、いつものカウンターの端の席へと向かった。
「如月くん、大丈夫……? すごく顔色が悪いけど……」
「……仕事が、押してさ。三日間、まともに寝てないんだ。……ここに来れば、少しは息ができるかと思ったんだけど」
彼はカウンターに突っ伏した。
アイドルとしての「如月奏」を維持するためのエネルギーが、完全に底をついている。昨日の志乃さんの朗報を聞いて駆けつけたかったのだろうが、その体は限界を超えていた。
「……一番、苦いコーヒーを。……目が覚めるような、やつを頼む」
「……分かった。少し待ってて」
私は彼に背を向け、豆の計量を始めた。
誠司さんなら、彼にどんな一杯を出すだろう。
ただ苦いだけの珈琲なら、どこにでもある。でも、今の彼が求めているのは、単なる覚醒ではないはずだ。
私は深煎りの豆を選び、いつもより細かく挽いた。
お湯の温度は、彼の凍えた心を溶かすように、僅かに高めに。
ドリップする指先に、全神経を集中させる。
ポタ、ポタと落ちる黒い雫は、静寂そのものだった。
「……はい。お待たせしました」
私は彼の前に、漆黒の液体を湛えたカップを置いた。
如月くんはゆっくりと顔を上げ、立ち上る湯気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「……いい香りだ。誠司さんのとは、何かが違う気がするけど」
彼は震える手でカップを持ち、一口、慎重に啜った。
「…………っ」
その瞬間、彼の端正な眉が大きく動いた。
「……苦い。……でも、すごく……温かい」
如月くんはそのまま、何度も、何度も、大切そうに珈琲を口に運んだ。
店内には、私と彼、二人だけの時間が流れていた。
カウンター越しに見る彼の横顔は、学園の王子様でもなく、トップアイドルでもない。ただの、一人の孤独な同級生だった。
「……昨日さ」
如月くんが、ぽつりと呟いた。
「店がひどく騒がしかった時に、君が走り回ってるのを見て……正直、驚いたんだ。学校ではいつも、空気みたいに気配を消している君が、ここでは誰よりも必死に動いていただろう」
「えっ……あ、あの……」
私は言葉に詰まった。学園での「背景」としての努力を、彼がそんな風に見ていたなんて思いもしなかった。
「……皮肉だね。今の俺には……世界中の誰よりも、一生懸命な君の姿が、一番はっきり見えるよ」
如月くんはカップを置き、潤んだ瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「……君が淹れてくれたこの珈琲のおかげで、俺はまた、如月奏に戻れる気がする。……明日からまた、あのクソみたいな光の中に、戻ってやれるよ」
彼は自嘲気味に、けれどどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「如月くん……」
「……ありがとう。助かったよ、店員さん」
彼は立ち上がり、再びサングラスをかけた。
代金を置き、フードを深く被り直す。
その背中は、店に入ってきた時よりもずっと、凛として見えた。
カランコロン。
彼が去った後の店内に、再び静寂が戻ってくる。
私は彼が座っていた席に残された、空のカップを見つめた。
学園での私がどんなに透明であっても、この場所でなら、誰かの支えになれるのかもしれない。
その実感が、じんわりと胸の奥を温めていった。
午後一時。
誠司さんが、大きな荷物を抱えて病院から戻ってきた。
「……陽葵。異状はなかったか」
「はい! メモも取ってあります。客足は十組、山田さんも来てくださいました。……それから、如月くんも」
誠司さんは無言でメモを受け取り、それから店内の隅々まで、厳しい目で見渡した。
カウンターの清掃具合、補充された豆の量、そして私が書き残した一言一句。
生きた心地がしなかった。もし、少しでも不手際があれば、「バイト禁止」に戻されてしまうかもしれない。
誠司さんは最後に、私が如月くんのために使ったドリッパーをじっと見つめた。
「…………」
長い、沈黙。
「……陽葵」
「は、はいっ!」
「……フン。少しはマシな動きになったな。……豆の挽き方はまだ甘いが、志乃が淹れた時の香りに、少しだけ近かったぞ」
それは、彼が口にできる最大級の賛辞だった。
「……っ、ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げた。
誠司さんはぶっきらぼうに「さっさと昼飯を食え。午後は俺がやる」と言い、エプロンの紐を締め直した。
私は裏の小部屋で、誠司さんが買ってきてくれたサンドイッチを頬張りながら、窓の外を見上げた。
日曜日の、琥珀色の昼下がり。
志乃さんが目を覚まし、誠司さんに認められ、そして如月くんの素顔に触れた。
私の「背景」としての平穏な日々は、もう二度と戻ってこないだろう。
けれど、この手に残る珈琲の温もりと、誰かの役に立てたという誇らしさが、私を少しだけ大人にしてくれたような気がした。
明日。学校へ行けば、また目立たないように振る舞わなければならない。
でも、私にはこの場所がある。
帰り道、夕陽に照らされた路地裏の赤煉瓦を見上げながら、私は自分でも気づかないうちに、小さな、けれど確かな笑顔を浮かべていた。




