第十五話:土曜日の安堵と、碧い熱源
土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む光は、昨日までの重苦しさを嘘のように洗い流していた。
私は鏡の前で制服ではない、動きやすい服装に着替えながら、昨夜の出来事を反芻していた。誠司さんからの電話、志乃さんの意識が戻ったという震える声。そして、暗い店内に現れた三浦くんの、あの熱を帯びた指先。
(……三浦くんのこと、考えちゃダメ。今は、お店に集中しなきゃ)
私は赤らんだ顔を両手で叩き、気合を入れ直して『琥珀』へと向かった。
路地裏に辿り着くと、既に店からは香ばしい珈琲の匂いが漂っていた。重厚な扉を開ければ、そこには一晩中病院に付き添っていたはずの誠司さんが、いつものようにカウンターに立っていた。
「……おはようございます、誠司さん。お疲れ様です」
誠司さんは、僅かに充血した目をしながらも、私を見てゆっくりと頷いた。その表情には、数週間ぶりに深く、穏やかな安堵が滲んでいた。
「……陽葵。昨夜は、助かったぞ」
「! い、いえ……! 私は、言われた通りに片付けただけですから」
不器用な誠司さんから、初めて明確な労いの言葉をかけられ、私は鼻の奥がツンとした。彼がどれほどの重圧の中でこの店を守り、志乃さんを支えてきたか。その一端を昨夜、身を以て知ったからこそ、その言葉の重みが染み渡る。
「志乃は、今朝も落ち着いている。来週には、お前も顔を見せに行ってやってくれ」
「はいっ! 楽しみにしてます!」
私は弾けるような笑顔で答え、すぐにエプロンを締めた。
開店準備。昨日までは「不安を打ち消すための作業」だった掃除や補充が、今日は「喜びを分かち合うための準備」に変わっていた。
磨き上げたグラスが光を反射し、カウンターの木目が琥珀色に輝く。
やがて、開店のベルが鳴った。
志乃さんの容態を案じていた近所の人々や常連客が次々と訪れ、店主から語られる吉報に、店内は温かな祝福の空気に包まれていく。私はその中心で、誰よりも明るく「いらっしゃいませ」と声を出し、立ち働いた。
午後の陽射しが斜めに差し込み始めた頃。
カランコロン、という繊細なベルの音が響いた。
入ってきたのは、千ヶ崎響くんだ。
彼はいつも通りの端正な、けれどどこか生気のない顔立ちで店内を見渡し、真っ直ぐにカウンターの隅へと歩み寄った。
「……店主さん。志乃さんは」
響くんの声は、僅かに震えていた。
世界的なピアニストとして、常に完璧な音を求められる彼にとって、志乃さんは唯一、自分の「音」をそのまま受け入れてくれる理解者だったはずだ。
誠司さんは、作業の手を止めて彼と向き合った。
「……意識が戻った。今は、安定しているそうだ」
「…………」
響くんは、その場に固まった。
やがて、彼は深すぎるほどの溜息を吐き出し、鍵盤を叩くためのあの繊細な指先を、顔を覆うように強く押し当てた。
「……そう。よかった。本当に……」
彼がこれほどまでに感情を露わにするのを、私は初めて見た。
天才と持て囃される少年の、脆くて、純粋な安堵の姿。
私は誠司さんに目配せをされ、頷いた。
「響くん。……今日は、これを飲んでください」
私は誠司さんの指示を受け、志乃さんが以前、私にこっそり教えてくれていた「秘策」を実行した。
響くんが極度の緊張から解放された時に好む、特定の温度で抽出された、深い青色のカップに注がれる一杯。
豆を挽き、丁寧にドリップする。
お湯を注ぐ際、私は志乃さんの言葉を思い出していた。
『響くんはね、心が空っぽになった時、この音に耳を傾けるのよ』
私はネルを滴る雫の音を、一つの旋律として彼に届けるように、静かに、けれど心を込めて用意した。
「……どうぞ。お待たせいたしました」
目の前に置かれた青いカップから立ち上る湯気を、響くんは愛おしそうに見つめた。
一口。ゆっくりと、彼はその苦味を喉に流し込んだ。
「……美味しい。……志乃さんの時と同じ、優しい味がする」
響くんはカップを見つめたまま、独り言のように呟いた。
私が志乃さんの「好み」を正確に再現できたことに、胸の奥が熱くなる。
響くんはそれから、しばらくの間、何も言わずに店内に流れるジャズの旋律に身を任せていた。
ふと、店内に小さな、けれど澄んだ「音」が混ざった。
トントン、カチャ、トントン……。
響くんが、無意識にテーブルの木目を指先で叩いている。
それはクラシックの厳格なリズムではない。今、この場所で彼が感じている安堵や喜びをそのまま映し出したような、軽やかで即興的なタップ。
(……すごい。指先が、歌ってるみたい)
私はその様子を、カウンター越しにじっと見守った。
彼がピアノを弾く時のような、他者を寄せ付けない凄みはない。ただ、一人の少年が心を通わせるようにして紡ぎ出す、無名の音楽。
響くんはふと、私の視線に気づいたのか、指を止めた。
そして、いつもなら冷徹なはずのその瞳を、少しだけ柔らかく細めて私を見た。
「……昨日の夜、君が一人でここを守ってくれたんだよね。店主さんから聞いたよ」
「えっ、……はい。掃除をしてただけですけど」
「ありがとう。……君がここにいてくれると、この店の『音』が、少しだけ温かくなる気がする」
響くんは去り際に、私の目を真っ直ぐに見つめて、僅かに微笑んだ。
その微笑みは、昨日の奏くんのそれとは違う、魂の奥底で繋がった者だけが交わすような、深い信頼の色を帯びていた。
「……ご馳走様。また明日、聴きに来るよ。……この店の『音』をね」
カランコロン。
響くんが去った後、店内の空気は、いつの間にか春の夕暮れのような穏やかな優しさに包まれていた。
誠司さんがカウンターで「……ったく、どいつもこいつも」と、照れ隠しのように布巾を動かしている。
安堵の土曜日が、更けていく。
志乃さんの意識回復という光が、この路地裏の喫茶店を、より一層深く、琥珀色に照らし出していた。
けれど、私は予感していた。
志乃さんが目を覚ました今、この物語は単なる「隠れ家」の話から、より確かな、そしてより情熱的な方向へと動き出そうとしていることを。
病院で眠る志乃さんが、私に何を託そうとしているのか。
窓の外では、一番星が静かに輝き始めていた。
私の看板娘としての毎日は、まだ始まったばかりだ。




