第十四話:真夜中のカウンターと、暴かれた本音
温かい缶の感触が、指先からじわじわと体温を奪い返していく。
照明を落とし、わずかな常夜灯だけが灯る『琥珀』の店内。カウンター越しに向かい合って座る三浦くんは、自分の缶を一口啜り、ふぅと短く息を吐いた。
外を叩く雨音は、いつの間にか規則正しいリズムに変わり、この静かな箱を外界から切り離されたシェルターのように包み込んでいる。
「……三浦くん。本当に、なんで来たの。店、もう閉まってたのに」
私がようやく絞り出した問いに、三浦くんはスツールの上で姿勢を崩し、悪戯っぽく肩をすくめた。
「言ったじゃん。あんたが一人で震えてるんじゃないかと思ってさ。……店主さんが走っていくのを見た時、嫌な予感がしたんだよ。佐倉さん、そういうの顔に出やすいだろ」
三浦くんの視線が、私の顔を真っ直ぐに射抜く。
学園での彼は、いつも適当に周囲を受け流しているように見えていた。けれど、今こうして至近距離で見つめられると、彼の瞳には驚くほど鋭い光が宿っていることに気づく。
「……顔に出やすい、かな。私、ずっと『背景』になれるように頑張ってきたのに」
「ははっ、無理だって。あんたさ、必死すぎるんだよ。石ころになろうとして、誰よりも力んでる。そんな奴、放っておけるわけないじゃん」
三浦くんは笑いながら、カウンターの端に置かれた私の震える手を指差した。
自分でも気づかないうちに、私はずっと、誠司さんが去った後の静寂に押し潰されそうになっていた。志乃さんの容態、一人で店を守る重圧、そして誰もいない暗闇。
それらを必死に「店番だから」という言葉で抑え込んでいた綻びを、彼は一瞬で見透かしてしまった。
「……奥さんが、入院してるの。誠司さんは、ずっと一人でここを守ってて。……私は、その手伝いがしたかっただけなのに。今日みたいな日に、何もできない自分が、すごく情けなくて」
一度言葉が漏れ出すと、止まらなかった。
王子様たちの前では、私は「店員」という仮面を被らなければならない。誠司さんの前では、「一人前の戦力」だと思わせなければならない。
けれど、私の正体を知りながら、あえて踏み込んできた三浦くんの前でだけは、私はただの「佐倉陽葵」に戻ってしまう。
「情けなくないよ。あんた、ちゃんと一人で片付け終わらせたんだろ? 鍵も閉めようとしてた。……店主さんも、あんたを信頼したから預けたんだよ」
「……そう、かな」
「そうだよ。……あんたさ、もっと自分を評価してやりなよ。ドジだけど、根性だけは一級品。……俺が今まで見てきた中で、一番面白い『背景』だよ」
三浦くんはそう言って、ひらりと手を伸ばした。
不意に近づいた彼の指先に、私は息を呑んで体を強張らせた。
彼は私の頬に触れるか触れないかの距離で一度手を止め、それから、いつの間にか付着していたらしい水滴――あるいは涙の跡を、親指の腹で優しく拭った。
「……ほら、汚れてる。看板娘がそんな顔してたら、店主さんが泣くぞ」
その指先は、さっきまで雨に打たれていたとは思えないほど、熱を帯びていた。
心臓が、ドクンと大きな音を立てる。
不安で打っていた脈動とは明らかに違う、熱い何かが胸の奥で暴れ始めた。
私は動くこともできず、ただ三浦くんの瞳を見つめ返す。彼は逸らすことなく、吸い込まれるような深い視線で私を捕らえていた。
どれほどの時間が経っただろう。
店内に響く古い時計の針が、カチ、カチと、私たちの間の沈黙を刻んでいく。
その沈黙を切り裂いたのは、カウンターの上に置いていた私のスマートフォンのバイブレーション音だった。
「……っ!」
弾かれたように手を引っ込め、私は画面を覗き込んだ。
誠司さんからの着信。
私は祈るような気持ちで、震える指で通話ボタンを押した。
「……誠司さん!? 志乃さんは、志乃さんはどうでしたか……っ!?」
三浦くんも、固唾を呑んで私の様子を見守っている。
受話器から聞こえてきたのは、誠司さんの、いつになく深く、安堵に満ちた溜息だった。
『……陽葵か。……志乃の意識が、はっきりした。峠を越えたそうだ。……明日には、普通に会話もできると言われた』
その言葉を聞いた瞬間、私は腰から崩れ落ちそうになった。
目頭が急激に熱くなり、堪えていたものが溢れ出す。
「……よかった。本当に、本当によかった……!」
『……すまなかったな、陽葵。一人で店を任せて。……今日は、もう上がっていい。俺は今夜、病院に付き添う。鍵だけしっかり頼むぞ』
「はい、はい……! 私に任せてください。志乃さんによろしく伝えてくださいね!」
通話を終え、私はスマートフォンの画面を胸に抱きしめた。
安堵の涙が止まらず、視界がぐにゃりと歪む。
そんな私を、三浦くんは椅子から立ち上がり、少しだけ離れた位置から静かに見つめていた。
「……よかったな、佐倉さん。これで安心して眠れるだろ」
三浦くんの声は、いつもの軽薄さが消え、どこか遠くから響くような優しさを帯びていた。
彼は空になった缶をゴミ箱に投げ入れると、制服の上着を肩に担いだ。
「じゃ、俺はもう行くわ。あんたも早く帰れよ? 用心棒が必要なら、家まで送ってやってもいいけど」
「……ううん、大丈夫。本当に、ありがとう、三浦くん。君がいなかったら、私、もっと……」
「お礼なら、今度美味いコーヒー一杯奢ってよ。店主さんがいない時にさ」
三浦くんは、入り口の扉へと歩み寄った。
彼は鍵を開け、外へ出る寸前に立ち止まり、振り返った。
「……じゃあな、看板娘。明日も学校で、完璧な『背景』見せてくれよな」
三浦くんが夜の闇へと消えた後、私は再び店内に鍵をかけ、静かなフロアを見渡した。
志乃さんが助かったという、最高の知らせ。
それなのに、私の胸の奥には、三浦くんの指先が触れた感触が、いつまでも熱く残っていた。
彼が言った、「面白い背景」という言葉。
誰にも見つからないように、誰の記憶にも残らないように必死だった私の世界。
そこに土足で踏み込んできて、勝手に光を灯して去っていった、不敵な隣人。
私は赤らんだ顔を両手で覆い、冷え始めた店内の空気の中で、自分の心臓の音を聴いていた。
明日。
学園で彼と顔を合わせる時、私は果たして、いつも通りの「背景」でいられるだろうか。
雨はいつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から覗く月光が、掃除の行き届いたカウンターを、琥珀色に照らし出している。
私の本当の物語は、また一つ、新しい夜を越えて、誰も予想しなかった方向へと進み始めていた。




