第十三話:沈黙の受話器と、夜を分かつ影
受話器を握る誠司さんの指先が、白く強張っていた。
雨上がりの湿った空気が停滞する店内で、その沈黙はあまりに重く、鋭い。カウンターの隅で橘くんの使ったグラスを磨いていた私は、動くことさえ忘れ、叔父の背中を凝視していた。
「……ああ、分かった。……今すぐ行く」
短く、ひどく掠れた声。
電話を切った誠司さんは、しばらくの間、受話器に手を置いたまま動かなかった。その広い背中が、微かに震えているように見えたのは、私の気のせいだっただろうか。
「誠司さん……。志乃さんが、何か?」
私が恐る恐る声をかけると、誠司さんはゆっくりとこちらを振り返った。その瞳には、いつもの不愛想な厳しさはなく、行き場のない焦燥だけが渦巻いている。
「……意識が戻ったそうだ。志乃が、俺を呼んでいると」
「! 本当ですか!? 良かった……!」
「だが、片付けがまだ終わっていない。仕込みも、明日の準備も……」
誠司さんは視線を店内に彷徨わせた。職人気質の彼は、どんな時でも店を疎かにすることを良しとしない。けれど、今彼が一番に優先すべき場所がどこであるかは、誰の目にも明らかだった。
「誠司さん、行ってください! ここは私が全部やっておきますから!」
私はカウンターを飛び出し、誠司さんの肩を強く押した。
彼は驚いたように目を見開いたが、私は引かなかった。
「志乃さんが呼んでるんでしょ? 誠司さんが行かなきゃダメです! 片付けも、戸締まりも、私が責任を持ってやります。だから、早く!」
「……陽葵。しかし、お前一人で……」
「大丈夫です! 私、もう正式な店番なんですから。任せてください!」
私の必死の訴えに、誠司さんはようやく決意を固めたようだった。彼は無言で私の頭に一度だけ手を置き、それから震える手で上着を掴んだ。
「……鍵は任せた。裏の勝手口も、戸締まりだけは絶対に忘れるな。……頼んだぞ」
「はいっ! いってらっしゃい!」
誠司さんは、一度も振り返らずに店を飛び出していった。
開け放たれた扉から、夜の冷たい空気が入り込み、ドアベルが不規則に揺れる。
カラン、コロン……。
静寂が、一気に店内に戻ってきた。
私は開いたままの扉を閉め、内側から鍵をかけた。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、広い店内には私一人だけ。
私は深く息を吐き出し、再びカウンターの内側へと戻った。
やらなければならないことは山積みだ。橘くんが座っていた席の片付け、一ノ瀬くんが使ったカップの洗浄、そして明日のための豆の補充。
私は不安を打ち消すように、無心で手を動かし始めた。
(志乃さん、大丈夫かな。誠司さん、間に合ったかな……)
シンクでカップを洗う水の音だけが、店内に響き渡る。
いつもなら誠司さんの低い声や、ジャズのレコードが流れているこの場所が、今はひどく広く、見知らぬ場所のように感じられた。
窓の外では、街灯の光が濡れた路面を反射している。
時折、遠くで車の走行音が聞こえるだけで、路地裏は深い静寂に沈んでいた。
一つひとつの作業を、誠司さんに教わった通りにこなしていく。
テーブルを拭き、椅子を整え、シュガーポットを補充する。
「背景」として生きてきた私にとって、一人の夜は慣れっこなはずだった。けれど、この『琥珀』という場所を一人で守っているという重圧は、想像以上に私の肩にのしかかっていた。
時計の針が、九時を回った。
ようやく全ての片付けを終え、私はエプロンを外した。
静まり返ったフロアの照明を、一つ、また一つと落としていく。
琥珀色の光が消えるたびに、夜の闇が窓の外から侵入してくるようで、私は僅かに身震いをした。
「……よし。戸締まり、確認して……」
私が着替えのために裏の小部屋に向かおうとした、その時だった。
カチャリ。
表の扉の鍵が、外側から開けられる音がした。
私の心臓が、喉元まで跳ね上がった。
(えっ、……誠司さん!? 忘れ物かな……?)
私は慌ててカウンターから身を乗り出した。
だが、そこに立っていたのは、見慣れたがっしりとした叔父の体躯ではなかった。
カランコロン。
消したはずのドアベルが、小さく鳴り響く。
逆光の中に立っていたのは、細身の、けれどどこか不敵な佇まいを持った人影。
「……あー、やっぱりまだいた。鍵、開いてたよ? 佐倉さん。不用心すぎでしょ」
聞き慣れた、軽薄なようでいて、すべてを見透かしているような声。
そこに立っていたのは、三浦翔太くんだった。
彼は制服のまま、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で、私が閉め忘れた……いや、閉めたはずの扉のノブを握っていた。
「三浦、くん……!? なんで……なんでここに」
「別に。さっき駅前で、店主さんが血相変えて走っていくの見えたからさ。あんたのことだ、一人で店に残されて、今頃泣きべそかいてんじゃないかと思って」
三浦くんはニヤニヤしながら店内に入り、当然のようにカウンターの隅の席に腰を下ろした。
私は呆然と彼を見つめることしかできなかった。
学園での彼は、ただの「隣の席のチャラい男子」だ。でも、今の彼は、夜の闇を味方につけた、正体不明の闖入者に見えた。
「泣いてなんか、ないよ。……仕事、終わったところだもん」
「へぇ。……手が震えてるよ、背景さん」
三浦くんは私の指先を指差した。
指摘されて初めて、自分が小刻みに震えていることに気づいた。
誠司さんがいなくなった後の、底知れない不安。
志乃さんの容態への心配。
それが、三浦くんという「知っている顔」を見た瞬間に、一気に溢れ出しそうになっていた。
「……三浦くん、本当に、なんで来たの? もう閉店だよ」
「分かってるって。……ほら、これ。お近づきの印」
三浦くんがカウンターの上に置いたのは、コンビニの袋に入った二つの温かい缶飲料だった。
「あんた、晩飯もまだだろ。店主さんが戻るまで、付き合ってやるよ」
彼は私の返事も待たず、カチリと自分の缶を開けた。
シュワッ、という炭酸の音が、静寂に沈んでいた店内に、場違いなほど明るく響いた。
私はトレイを握りしめ、言葉を失った。
この人は、いつもそうだ。
私が「背景」として隠れている時も、こうして必死に強がっている時も。
一番見られたくない綻びを、一番簡単に暴いてしまう。
「……三浦くん。君って、本当に……」
「お節介? それとも、最高の隣人?」
三浦くんは悪戯っぽく笑い、私に缶を差し出した。
「ほら、飲みなよ。冷めるぞ」
私は躊躇しながらも、その温かい缶を受け取った。
指先に伝わる熱が、凍りついていた私の心を、ゆっくりと溶かしていく。
夜の『琥珀』。
主のいないカウンターで、私と、私の正体を知る三浦くん。
二人きりの時間が、ゆっくりと流れ始める。
窓の外では、再び雨が降り始めた。
けれど、さっきまでの孤独な音とは、どこか違って聞こえた。
三浦くんの不敵な笑顔。
それだけが、この不安な夜を分かつ、唯一の確かな影だった。




