第十二話:五月雨の咆哮と、温かな雫
窓の外が、一瞬にして鉛色に塗り潰された。
さっきまで穏やかな陽光を反射していた路地裏の石畳は、叩きつけるような豪雨によって白く煙り、激しい飛沫を上げている。春の嵐というにはあまりに暴力的な、空の決壊だった。
カランコロン!!
ドアベルが、悲鳴を上げるような鋭い音を立てて弾けた。
飛び込んできたのは、一人のずぶ濡れの影だ。
深い紺色のブレザーは水を吸って重く垂れ下がり、足元のタイルには瞬く間に小さな水たまりが出来上がっていく。
「はぁ、はぁ……っ! すみません、雨宿り……させて、ください……っ」
肩を激しく上下させ、滴る水に目を細めながら顔を上げたのは、橘駆くんだった。
いつもなら学園のグラウンドで太陽を味方につけているはずの彼が、今は荒い呼吸を繰り返し、寒さに指先を震わせている。
(……橘くん!? 凄い濡れ方……!)
私は誠司さんの指示を待つよりも早く、体が動いていた。
カウンターの奥、棚の最下段に用意されている予備の備品。そこから、清潔で厚手のタオルを二枚、迷いなく掴み出す。
一ノ瀬くんとの静かな時間を守り抜いた直後の集中力が、まだ私の身体に残っていた。
「橘くん、これ! すぐに拭いてください。風邪引いちゃいますよ!」
私は駆け寄り、彼の肩に一枚のタオルを広げてかけた。もう一枚を差し出すと、彼は驚いたように目を見開き、それから申し訳なさそうに受け取った。
「……わりぃ。助かる、佐倉」
「カバンも貸してください。中身が濡れないように、こっちで拭いておきますから」
私は彼のスポーツバッグを預かり、入り口から少し離れた、水滴の影響を受けない場所へと移動させた。
学園での「背景」としての私は、こんなにハキハキと声を出すことはない。誰かの領域に自分から踏み込むこともしない。けれど、このエプロンを締めている今は、目の前で困っている「お客様」を放っておくことなど、プロとして許されなかった。
「……陽葵。そいつをストーブの近くに座らせろ。……駆、お前はこっちだ」
カウンターの奥から、誠司さんの低い声が響いた。
誠司さんは、いつもの珈琲セットではなく、小さな手鍋を取り出し、冷蔵庫から自家製の蜂蜜に漬け込まれたレモンの瓶を取り出した。
橘くんは誠司さんの促しに従い、カウンターの端、最も温かい風が届く席へと腰を下ろした。
「……最悪だぜ。試験明けだからって、一人でグラウンドで走り込みしてたら、これだ」
「エースが体調管理もできんのか。志乃が見たら呆れるぞ」
「分かってるって……。でも、投げたかったんだよ。一週間、指先が鈍っちまってたからさ」
橘くんはタオルで髪を乱暴に拭きながら、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
誠司さんは不愛想な態度のまま、けれどその手付きは驚くほど丁寧に、温かい飲み物を準備している。
私はその間に、橘くんのバッグに付着した泥を乾いた布で拭い、濡れた教科書が重なっていないか、隙間から慎重に確認した。
(……野球部のエース。マウンドの上ではあんなに強そうなのに、今はただの、雨に濡れた大きな子供みたい……)
私は、誠司さんが淹れ終えたばかりの、湯気を立てる耐熱グラスを受け取った。
中には、黄金色に輝く特製のはちみつレモン。レモンの爽やかな酸味と、蜂蜜の濃厚な甘い香りが、店内の湿った空気を一瞬で塗り替えていく。
「橘くん、どうぞ。ゆっくり飲んでくださいね」
「……おう。サンキュ」
橘くんがグラスを受け取る際、一瞬だけ指先が触れた。
彼の指は、氷のように冷たくなっていた。けれど、グラスを握る手の平は驚くほど大きく、硬いマメがいくつも出来ていた。
それが、彼がこれまで積み上げてきた努力の証なのだと、間近で見て初めて知った。
橘くんは熱い液体を一口啜り、ふぅ、と深い溜息を吐き出した。
「……生き返るわ。これ、志乃さんの味だろ」
「……ああ。お前がガキの頃、泥だらけで泣きながら飲んでたやつだ」
「泣いてねーよ! ……まあ、負けて悔しかったのは覚えてるけどさ」
二人の間で交わされる、短いけれど密度の濃い会話。
私には入り込めない、長い時間をかけて築かれた信頼関係。
誠司さんの趣味が高校野球であること、そして橘くんがその情熱の中心にいること。
その事実を、私は一人の店番として、ただ黙って見守った。
外の雨音は、さらに激しさを増していた。
時折、雷鳴が遠くで轟き、窓硝子が僅かに震える。
けれど、この四角い空間の中だけは、はちみつレモンの香りに守られた、完全な停滞があった。
橘くんは二口、三口と飲み進めるうちに、青白かった顔に赤みが戻ってきた。
彼はタオルを首にかけ、少しだけリラックスした様子で、カウンターの奥で働く私に視線を向けた。
「……佐倉。お前、昨日も思ったけど、学校と全然違うな」
「えっ、そうかな……?」
「ああ。学校じゃ、どこにいるかも分かんねーくらい静かなくせに。……今のお前、なんか、ちゃんとそこにいる感じがする」
橘くんの言葉に、私は手を止めて、自分のエプロンを見つめた。
「ちゃんと、そこにいる」。
それは、背景として生きることを選んでいた私にとって、一番遠い言葉だった。
けれど、この店で働くようになってから、私はその「不自由な確かさ」を、どこかで求めていたのかもしれない。
「……ここは、私の大事な場所だから。……誰にも、邪魔されたくないの」
「……ふぅん。まあ、誠司さんの隣でこれだけ動けるなら、たいしたもんだわ。合格じゃね?」
橘くんがニカッと笑った。
その笑顔は、昨日のような意地悪なものではなく、マウンドで仲間を鼓舞する時の、真っ直ぐで強い光を宿していた。
「おい、陽葵。無駄口を叩くな。……駆、タオルを貸せ。もう一枚持ってくる」
「あ、私がやります!」
私は誠司さんに叱られる前に、橘くんの手元にある湿ったタオルを素早く回収した。
誠司さんは相変わらず厳しいけれど、私が自分から考えて動いたことに対しては、何も言わなかった。それが、彼なりの「合格」なのだと、私は勝手に解釈した。
三十分ほど経った頃だろうか。
あんなに荒れ狂っていた空が、嘘のように静まり返った。
雲の切れ間から、夕焼けの残光が差し込み、雨に濡れた路地裏を宝石のように輝かせている。
「……よし。雨、上がったな」
橘くんが立ち上がり、自分のバッグを肩に担いだ。
彼はすっかり温まった様子で、私に向かって手を挙げた。
「佐倉。タオルとレモン、マジで助かったわ。……これ、また明日返しに来るから。明日も、店いんだろ?」
「……はい! 明日も、明後日も、ずっといます」
「そっか。じゃあ、またな」
橘くんは誠司さんにも短く会釈をして、意気揚々と店を出て行った。
カランコロン、というドアベルの音が、雨上がりの澄んだ空気に吸い込まれていく。
再び訪れた、静寂。
私は橘くんが座っていた席を片付けながら、自分の指先に残る温もりを確認した。
「背景」を捨てて、誰かのために動くこと。
それは、思っていたよりもずっと、私の心を強くしてくれる。
「……少しは気が利くようになったな、陽葵」
誠司さんが、ボソリと呟いた。
「……! ありがとうございます、誠司さん!」
私が満面の笑顔で応えると、誠司さんは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
けれど、その直後。
店の奥にある、志乃さん専用の電話が、けたたましく鳴り響いた。
誠司さんの表情が、一瞬で強張る。
私も、息を呑んだ。
この時間の電話。それは、入院中の志乃さんに関する知らせか、あるいは……。
誠司さんは震える手を抑えながら、受話器を取り上げた。
店内に、沈黙が満ちていく。
雨が上がった後の世界で、また新しい、避けられない変化が訪れようとしていた。




