第十一話:雨上がりのルーティンと、一人の客
金曜日。一週間の締め括りとなるこの日の放課後は、学園全体がどこか浮き足立った熱を帯びている。
部活動の練習に熱を入れる声、駅前の商業施設へ繰り出すグループの笑い声、そして、週明けの予定を立てる賑やかな喧騒。
私はそのすべてを、防波堤の影を歩くような慎重さですり抜けた。
(……昨日は、本当に申し訳なかったです、誠司さん……!)
校門を抜け、路地裏へと急ぐ私の脳内は、昨日の失態への猛省で埋め尽くされていた。
正式採用初日だというのに、学園の有名人たちが次々と現れたことに動揺し、お盆をガタつかせ、情けない悲鳴を上げてしまった。誠司さんの守ってきた『琥珀』の静寂を、あろうことか店員である私が一番にかき乱してしまったのだ。
蔦の絡まる赤煉瓦が見え、私は一度、深く深呼吸をした。
扉を開ける。カランコロン。
店内に漂う珈琲の香りが、昨日のパニックでささくれ立っていた私の心を、静かに鎮めていく。
「……おはようございます、誠司さん。昨日は、その、お騒がせしてすみませんでした」
カウンターの奥で、開店前の準備をしていた誠司さんが、手を止めずに応えた。
「……陽葵。お前に一つだけ言っておく」
「は、はいっ」
「客が誰であろうと、どんな顔ぶれが集まろうと、この店に流れる時間は変わらん。お前の仕事は、動揺して注文を間違えることでも、知り合いを見つけてはしゃぐことでもない。……ただ、この場所の温度を下げないように動くことだ。それができないなら、今すぐエプロンを置いて帰れ」
誠司さんの言葉は、低く、重かった。
それは叔父としての小言ではなく、一人のプロの店主としての、厳しい警告だった。
私は背筋を正し、力強く頷いた。
「……分かりました。もう、昨日のようなドジはしません。誰が来ても、私は『琥珀』の店番として、やるべきことをやります」
「……だったら、さっさと準備をしろ。一分後には開店だ」
私は深くエプロンの紐を締め直し、カウンターの内側へ滑り込んだ。
昨日のような、背景としての逃避ではない。
一人の人間として、この空間の一部になるための、覚悟を持った沈黙。
私は誠司さんの動きを鏡のように追いながら、一切の無駄を省いた動作でグラスを磨き、テーブルの配置を整えた。
やがて、開店を告げる時間が訪れた。
今日、最初のお客様が扉を叩く。
カランコロン。
入ってきたのは、一ノ瀬蓮くんだった。
彼は昨日、あんなに騒がしかったはずの店内が嘘のように静まり返っていることに、僅かに眉を動かした。
一ノ瀬くんは、昨日のカオスなど最初からなかったかのように、真っ直ぐにいつもの壁際の席へと向かった。
私は深く、短く息を吐いた。
相手は同じクラスの、誰もが知る秀才。
けれど今の私にとっては、静かな読書時間を求めに来た、一人の大切なお客様だ。
私はお水の入ったグラスをトレイに乗せ、音を立てないようにゆっくりと彼の席へ近づいた。
一ノ瀬くんは既に厚い文庫本を開き、活字の海へと潜り込んでいる。
私は彼の視線を遮らない角度、そして彼の思考の糸を断ち切らない絶妙なタイミングを見極め、極めて静かにグラスを置いた。
「……失礼いたします」
囁くような、けれど明瞭な声。
一ノ瀬くんは本から目を離さなかった。けれど、私が水を置いた瞬間に、彼の肩の力が僅かに抜けたのが分かった。
誠司さんの淹れた、透き通るような香りの珈琲を運ぶ時も、私は神経を集中させた。
カップがソーサーに触れる音、伝票を置く指先の動き。
一つひとつの動作に、誠司さんの教えを叩き込む。
「そこにあるのが当たり前」だと思われるような、徹底した空気の維持。
一ノ瀬くんは、ページをめくるリズムを一度も乱すことなく、ドストエフスキーの世界に没頭していた。
カウンターの奥に戻った私は、そんな彼の背中を見守りながら、密かな達成感を覚えていた。
昨日、彼に「ノイズだ」と言われたことが、何よりも悔しかった。
だからこそ、今日は、彼に私がそこにいることさえ忘れさせるような、完璧な「無」になりたかった。
小一時間が経過した。
店内に流れるジャズの旋律が、穏やかな午後の光に溶けていく。
一ノ瀬くんが、ふっと重い表紙を閉じた。
私は彼の合図を待たず、けれど急かすこともなく、会計の準備を整えた。
彼が席を立ち、カウンターへやってくる。
私は事務的に、けれど心を込めてレジを打った。
「……ありがとうございました」
釣り銭を渡す際、一ノ瀬くんが初めて本から目を離し、私の顔をじっと見つめた。
「…………」
「あ、あの……?」
何か不手際があっただろうか。私は一瞬、昨日のパニックが再発しそうになった。
だが、一ノ瀬くんが口にしたのは、意外な言葉だった。
「……昨日は、不快だった」
「……っ、申し訳ありません……!」
「だが、今日は……一文字も読み飛ばすことはなかった。……この店の空気は、やはり、こうあるべきだ」
彼はそれだけを言うと、僅かに顎を引いて会釈をし、店を出て行った。
カランコロン、というベルの音が、どこか祝福のように響く。
(……褒められた、のかな?)
私は呆然と扉を見つめていた。
「背景」として無視されるのでもなく、アイドルにウインクされるのでもない。
一人の店番として、自分が維持した「空間」を認められた。
それは、テストで満点を取るよりも、学園で誰かにチヤホヤされるよりも、ずっと深く、私の胸を温めてくれた。
「……陽葵。手が止まっているぞ。さっさとテーブルを片付けろ」
「あ、はいっ! すみません!」
誠司さんの叱咤が飛ぶ。けれど、その声は昨日よりも少しだけ、角が取れているように感じられた。
私は喜びを噛み締めながら、一ノ瀬くんが座っていた席へと向かった。
丁寧にカップを下げ、テーブルを拭き上げる。
一つひとつの作業が、今は誇らしくてたまらない。
だが、安堵したのも束の間だった。
外の空気が急激に湿り気を帯び、窓を叩く音が激しくなり始めた。
突然の、ゲリラ豪雨。
さっきまでの穏やかな陽光が嘘のように、路地裏は激しい雨に包まれる。
カランコロン!!
ドアベルが、悲鳴を上げるように鳴り響いた。
飛び込んできたのは、ずぶ濡れになった一人の影。
紺色のブレザーが肌に張り付き、滴る水が床に小さな水たまりを作っていく。
「はぁ、はぁ、……っ! すみません、雨宿り、させてください……!」
肩を激しく揺らし、濡れた前髪の間から鋭い視線を向けたその人物は、橘駆くんだった。
彼は店内に先客がいないことを確認し、そのままカウンターの椅子へと崩れ落ちるように座り込んだ。
「橘くん!? 凄い濡れ方……今、タオル持ってきます!」
私はプロ意識の覚醒も束の間、再び慌ただしく動き始めた。
一難去って、また一難。
けれど、昨日の私とは少しだけ違う。
私は誠司さんの顔を見ることなく、棚から清潔なタオルを二枚取り出し、震える橘くんの肩へと駆け寄った。
外の雨音は、ますます激しくなっていく。
金曜日の夕暮れ。
静かになりかけた『琥珀』に、また新しい「波紋」が広がろうとしていた。




