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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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12/23

第十話:琥珀色の放課後、正式採用

 返却された答案用紙の束を、私は震える手でカバンに押し込んだ。

 赤点は、ない。

 それどころか、死に物狂いで机に向かった成果か、どの科目も「背景」にしては出来すぎなほどの点数が並んでいた。これで、誠司さんとの約束は果たしたことになる。


(……これで、大手を振ってお店に行ける!)


 木曜日の放課後。

 終礼のチャイムと同時に教室を飛び出す私を、もはやクラスメイトたちは驚きもしない。ただ、隣の席の三浦くんだけが「あ、また逃げた」と小さく呟いたのが聞こえたけれど、今の私にそれを振り返る余裕はなかった。


 春の陽光が路地裏の石畳を照らす中、私は一週間前と同じルートを駆け抜けた。

 蔦の絡まる赤煉瓦、真鍮の看板。

 重厚な扉を押し開け、カランコロンというベルの音を聞いた瞬間、私のスイッチは完全に切り替わる。


「ただいま戻りました、誠司さん! 答案、持ってきました!」


 カウンターの中で豆を挽いていた誠司さんが、差し出された私の解答用紙を一瞥し、鼻で短く笑った。


「……フン。これだけ取れていれば文句はない。今日から正式採用だ。その代わり、給料分はしっかり働いてもらうぞ、陽葵」

「! はいっ、喜んで!」


 私は弾けるような声で答え、カウンターの隅で自分のエプロンを手に取った。

 深い茶色の布地。それを腰に巻き、背中でリボンをきつく結ぶ。

 今日。四月の中旬。私は私立星華学園の一年生であると同時に、喫茶『琥珀』の正式な店番になった。

 このエプロンの重みが、ただの居場所ではなく、自分の「責任」になったことが、誇らしくてたまらない。


 開店直後の店内は、まだ静寂に包まれていた。

 私は誠司さんの指示に従い、テーブルを拭き、シュガーポットを補充し、磨き上げられたグラスを並べていく。

 学校では指先一つ動かすのにも「目立たないように」と神経を削っていたけれど、ここでは逆だ。

 どうすればお客様が、この場所で最高の時間を過ごせるか。

 私は誠司さんの背中を追いながら、その所作の一つひとつを必死に盗み、自分のものにしようと格闘していた。


 だが、その平穏な労働時間は、一時間もしないうちに「異常事態」へと変貌した。


 カランコロン。

 本日、一人目の「特別」がやってきた。

 眼鏡の奥に冷徹な光を宿した、一ノ瀬蓮くんだ。彼は私と目が合っても表情を変えず、ただ短く会釈をすると、いつもの壁際の席へと向かった。

「……ブレンド。雑味のないものを」

「あ、はい。畏まりました」


 カランコロン。

 続いて現れたのは、フードを深く被り、周囲を警戒するように肩を揺らした如月奏くんだ。

「……佐倉さん。昨日言った通り、来たよ」

「いらっしゃいませ、如月くん。……あ、お好きな席へどうぞ」


 カランコロン。

 さらに、大きなスポーツバッグを担いだ橘駆くんが、扉を勢いよく開けて入ってくる。

「誠司さーん! 練習前に一杯飲ませてくれよ! ……お、如月に一ノ瀬。お前ら、宿題でもやってんのか?」


 カランコロン。

 最後に入ってきたのは、気だるげに髪をかき上げた千ヶ崎響くんだ。

「……不協和音が満ちてるね。でも、ここなら耳を塞がなくていい」


 気づけば、店内の主要な席は、学園の誇る「銀河系」の住人たちで埋め尽くされていた。

 一人は読書に没頭し、一人はフードの下で溜息を吐き、一人はカウンター越しに誠司さんに野球の話を振り、一人は窓の外を眺めて指を動かしている。

 彼らは互いに干渉し合うことはない。けれど、私の動線が彼らの視界に入るたび、四対の視線が、無言のまま私を追ってくるのを感じた。


(……なんで、みんな来ちゃうの!? ここ、そんなに有名店じゃないはずなのに……!)


 私はトレイを握りしめ、冷や汗を流しながら店内を走り回った。

 お水の追加、注文の確認、空いたカップの回収。

 学園では「背景」として認識すらされていなかった私が、今、この琥珀色の空間では、彼ら全員の中心に立たされている。


 そんなカオスに、さらなる不確定要素が飛び込んできた。


 カランコロン。

「へぇ……。ここが佐倉さんの『城』ってわけか」


 現れたのは、三浦翔太くんだ。

 彼は教室内と同じ、どこか人を食ったような笑みを浮かべて店内を見渡し、そして固まった。


「……うわ。何この客層。星華学園のVIPルームか何か?」

「三浦くん……! なんでここに!」

「なんでって、佐倉さんが毎日ここに消えるから、気になってさ。……なるほどね。背景さんが一番輝ける場所、見つけちゃったってこと?」


 三浦くんは空いているカウンターの席に腰を下ろし、面白そうに私を眺めた。

 その瞬間、店内の温度が数度下がったような気がした。

 読書をしていた一ノ瀬くんがページをめくる手を止め、奏くんがフードの奥から鋭い視線を向け、駆くんが眉をひそめ、響くんがピアノを弾くように指を鳴らす。

 三浦くんという「異分子」の登場に、四人の王子様たちが一斉に、無言の牽制を始めたのだ。


「……注文は」

 誠司さんの低い声が、そのピリついた空気を強引に切り裂いた。

「あ、えっと、アイスコーヒーで! 佐倉さんのオススメがあればそれで!」


 私はパニックになりながらも、必死に手を動かした。

 ドジをしている暇なんてない。

 誠司さんの不愛想なサポートをしつつ、五人の同級生たちの注文を捌き、かつ常連の山田さんたちに迷惑をかけないように。

 私はこれまで生きてきた中で、一番必死に、そして一番丁寧に、言葉を紡ぎ、所作を整えた。


 お水を注ぐ際、一ノ瀬くんの邪魔をしないように。

 奏くんの変装がバレないよう、さりげなく外からの視線を遮るように。

 駆くんの熱量を受け流しつつ、彼が落ち着けるように。

 響くんの繊細な耳に、大きな音を立てないように。

 そして、三浦くんの余計な詮索を、笑顔でかわすように。


 いつの間にか、店内に流れるジャズの旋律と、私の足音が重なっていた。

 忙しさに目を回しながらも、私は自分の内側に、確かな充実感が芽生えているのを感じた。

 学園での私は、ただの観測者だった。

 けれど、このエプロンを締めている私は、彼らに何かを与えることができる。

 一杯の珈琲、一口の安らぎ、そして、誰もが自分を偽らなくていい空間。


「……陽葵。ミルクが足りないぞ」

「あ、はいっ! すみません!」


 私は誠司さんに叱られながら、店内を駆け回った。

 自分の足に躓きそうになり、お盆の上でスプーンが踊る。

「ひゃあぁっ!」という私の声に、王子様たちがふっと顔を緩め、三浦くんが声を立てて笑う。

 

 琥珀色の放課後。

 私の「背景」としての物語は、ここで完全に幕を閉じた。

 その代わりに始まったのは、不愛想な叔父さんと、騒がしい五人の少年たちと、そして何より、自分自身を好きになり始めた私の、新しい日常だ。


 閉店時間を迎え、最後の一人が店を出る時。

 王子様たちはそれぞれ、まるで合言葉のように同じ言葉を置いていった。


「……明日も、来るから」


 私はその言葉の重みを、まだ完全には理解していなかった。

 けれど、シャッターを下ろし、エプロンを畳んで誠司さんに向き合った時、私の心は昨日よりもずっと、温かい満足感で満たされていた。


「……お前がいると、店が妙に騒がしくなるな」

 誠司さんが、ぶっきらぼうに呟く。

「あはは、すみません。……でも、明日も頑張ります!」


 私の元気な返声が、静まり返った路地裏に響き渡る。

 正式採用、一日目。

 私の放課後は、昨日よりもずっと鮮やかに、そして深く、琥珀色に染まり始めていた。


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