第十話:琥珀色の放課後、正式採用
返却された答案用紙の束を、私は震える手でカバンに押し込んだ。
赤点は、ない。
それどころか、死に物狂いで机に向かった成果か、どの科目も「背景」にしては出来すぎなほどの点数が並んでいた。これで、誠司さんとの約束は果たしたことになる。
(……これで、大手を振ってお店に行ける!)
木曜日の放課後。
終礼のチャイムと同時に教室を飛び出す私を、もはやクラスメイトたちは驚きもしない。ただ、隣の席の三浦くんだけが「あ、また逃げた」と小さく呟いたのが聞こえたけれど、今の私にそれを振り返る余裕はなかった。
春の陽光が路地裏の石畳を照らす中、私は一週間前と同じルートを駆け抜けた。
蔦の絡まる赤煉瓦、真鍮の看板。
重厚な扉を押し開け、カランコロンというベルの音を聞いた瞬間、私のスイッチは完全に切り替わる。
「ただいま戻りました、誠司さん! 答案、持ってきました!」
カウンターの中で豆を挽いていた誠司さんが、差し出された私の解答用紙を一瞥し、鼻で短く笑った。
「……フン。これだけ取れていれば文句はない。今日から正式採用だ。その代わり、給料分はしっかり働いてもらうぞ、陽葵」
「! はいっ、喜んで!」
私は弾けるような声で答え、カウンターの隅で自分のエプロンを手に取った。
深い茶色の布地。それを腰に巻き、背中でリボンをきつく結ぶ。
今日。四月の中旬。私は私立星華学園の一年生であると同時に、喫茶『琥珀』の正式な店番になった。
このエプロンの重みが、ただの居場所ではなく、自分の「責任」になったことが、誇らしくてたまらない。
開店直後の店内は、まだ静寂に包まれていた。
私は誠司さんの指示に従い、テーブルを拭き、シュガーポットを補充し、磨き上げられたグラスを並べていく。
学校では指先一つ動かすのにも「目立たないように」と神経を削っていたけれど、ここでは逆だ。
どうすればお客様が、この場所で最高の時間を過ごせるか。
私は誠司さんの背中を追いながら、その所作の一つひとつを必死に盗み、自分のものにしようと格闘していた。
だが、その平穏な労働時間は、一時間もしないうちに「異常事態」へと変貌した。
カランコロン。
本日、一人目の「特別」がやってきた。
眼鏡の奥に冷徹な光を宿した、一ノ瀬蓮くんだ。彼は私と目が合っても表情を変えず、ただ短く会釈をすると、いつもの壁際の席へと向かった。
「……ブレンド。雑味のないものを」
「あ、はい。畏まりました」
カランコロン。
続いて現れたのは、フードを深く被り、周囲を警戒するように肩を揺らした如月奏くんだ。
「……佐倉さん。昨日言った通り、来たよ」
「いらっしゃいませ、如月くん。……あ、お好きな席へどうぞ」
カランコロン。
さらに、大きなスポーツバッグを担いだ橘駆くんが、扉を勢いよく開けて入ってくる。
「誠司さーん! 練習前に一杯飲ませてくれよ! ……お、如月に一ノ瀬。お前ら、宿題でもやってんのか?」
カランコロン。
最後に入ってきたのは、気だるげに髪をかき上げた千ヶ崎響くんだ。
「……不協和音が満ちてるね。でも、ここなら耳を塞がなくていい」
気づけば、店内の主要な席は、学園の誇る「銀河系」の住人たちで埋め尽くされていた。
一人は読書に没頭し、一人はフードの下で溜息を吐き、一人はカウンター越しに誠司さんに野球の話を振り、一人は窓の外を眺めて指を動かしている。
彼らは互いに干渉し合うことはない。けれど、私の動線が彼らの視界に入るたび、四対の視線が、無言のまま私を追ってくるのを感じた。
(……なんで、みんな来ちゃうの!? ここ、そんなに有名店じゃないはずなのに……!)
私はトレイを握りしめ、冷や汗を流しながら店内を走り回った。
お水の追加、注文の確認、空いたカップの回収。
学園では「背景」として認識すらされていなかった私が、今、この琥珀色の空間では、彼ら全員の中心に立たされている。
そんなカオスに、さらなる不確定要素が飛び込んできた。
カランコロン。
「へぇ……。ここが佐倉さんの『城』ってわけか」
現れたのは、三浦翔太くんだ。
彼は教室内と同じ、どこか人を食ったような笑みを浮かべて店内を見渡し、そして固まった。
「……うわ。何この客層。星華学園のVIPルームか何か?」
「三浦くん……! なんでここに!」
「なんでって、佐倉さんが毎日ここに消えるから、気になってさ。……なるほどね。背景さんが一番輝ける場所、見つけちゃったってこと?」
三浦くんは空いているカウンターの席に腰を下ろし、面白そうに私を眺めた。
その瞬間、店内の温度が数度下がったような気がした。
読書をしていた一ノ瀬くんがページをめくる手を止め、奏くんがフードの奥から鋭い視線を向け、駆くんが眉をひそめ、響くんがピアノを弾くように指を鳴らす。
三浦くんという「異分子」の登場に、四人の王子様たちが一斉に、無言の牽制を始めたのだ。
「……注文は」
誠司さんの低い声が、そのピリついた空気を強引に切り裂いた。
「あ、えっと、アイスコーヒーで! 佐倉さんのオススメがあればそれで!」
私はパニックになりながらも、必死に手を動かした。
ドジをしている暇なんてない。
誠司さんの不愛想なサポートをしつつ、五人の同級生たちの注文を捌き、かつ常連の山田さんたちに迷惑をかけないように。
私はこれまで生きてきた中で、一番必死に、そして一番丁寧に、言葉を紡ぎ、所作を整えた。
お水を注ぐ際、一ノ瀬くんの邪魔をしないように。
奏くんの変装がバレないよう、さりげなく外からの視線を遮るように。
駆くんの熱量を受け流しつつ、彼が落ち着けるように。
響くんの繊細な耳に、大きな音を立てないように。
そして、三浦くんの余計な詮索を、笑顔でかわすように。
いつの間にか、店内に流れるジャズの旋律と、私の足音が重なっていた。
忙しさに目を回しながらも、私は自分の内側に、確かな充実感が芽生えているのを感じた。
学園での私は、ただの観測者だった。
けれど、このエプロンを締めている私は、彼らに何かを与えることができる。
一杯の珈琲、一口の安らぎ、そして、誰もが自分を偽らなくていい空間。
「……陽葵。ミルクが足りないぞ」
「あ、はいっ! すみません!」
私は誠司さんに叱られながら、店内を駆け回った。
自分の足に躓きそうになり、お盆の上でスプーンが踊る。
「ひゃあぁっ!」という私の声に、王子様たちがふっと顔を緩め、三浦くんが声を立てて笑う。
琥珀色の放課後。
私の「背景」としての物語は、ここで完全に幕を閉じた。
その代わりに始まったのは、不愛想な叔父さんと、騒がしい五人の少年たちと、そして何より、自分自身を好きになり始めた私の、新しい日常だ。
閉店時間を迎え、最後の一人が店を出る時。
王子様たちはそれぞれ、まるで合言葉のように同じ言葉を置いていった。
「……明日も、来るから」
私はその言葉の重みを、まだ完全には理解していなかった。
けれど、シャッターを下ろし、エプロンを畳んで誠司さんに向き合った時、私の心は昨日よりもずっと、温かい満足感で満たされていた。
「……お前がいると、店が妙に騒がしくなるな」
誠司さんが、ぶっきらぼうに呟く。
「あはは、すみません。……でも、明日も頑張ります!」
私の元気な返声が、静まり返った路地裏に響き渡る。
正式採用、一日目。
私の放課後は、昨日よりもずっと鮮やかに、そして深く、琥珀色に染まり始めていた。




