第九話:硝子越しの再認識
水曜日。中間試験という巨大な嵐が過ぎ去り、学園には平穏な日常が戻ったはずだった。
けれど、校門をくぐった瞬間に肌を刺した空気は、昨日までのそれとは明らかに異質な熱を孕んでいた。
(……気のせいだ。気のせい、気のせい。私はただの背景。石ころ。空気の一部……!)
私は心の中で必死に呪文を唱えながら、うつむき加減で廊下の端を歩いた。
昨日の夕方。喫茶『琥珀』の店内で繰り広げられた、あの悪夢のような光景が脳裏に焼き付いて離れない。学園の頂点に君臨する四人の王子様たちが、狭い店内にひしめき合い、そしてあろうことかエプロン姿の私を、はっきりとその視界に捉えてしまったのだ。
昇降口で靴を履き替える際、私は周囲を執拗に警戒した。
如月奏くんを待つ女子生徒たちの黄色い声が、いつも以上に鋭く聞こえる。もし、彼らが私に一言でも声をかけようものなら、私は明日からこの学園で生きていくことはできないだろう。
私は気配を殺し、最短ルートで一年C組の教室へと滑り込んだ。
自分の席に座り、教科書を広げる。
よし、完璧だ。ここなら死角。誰も私なんて見ていない。
そう自分に言い聞かせた直後、背筋に冷たいものが走った。
視線を感じる。
それも、一つではない。
最前列の席。一ノ瀬蓮くんが、いつも通り難解な本を開きながらも、ふとした瞬間に眼鏡の奥の瞳を僅かに後ろへ動かしたのが見えた。
彼は本をめくる手を止めることなく、けれど確実に、私の存在を確認するように視線を流していった。
昨日、店で「機能的ではないが、ノイズとしては一級品だ」と言い放った彼の声が、耳の奥で蘇る。
さらに、教室の中央。
女子生徒たちに囲まれ、いつもの完璧な笑顔で談笑している如月奏くん。
彼は時折、会話の合間に、ふっと視線を外す。その先にあるのは、いつもなら決して交わることのないはずの、窓際の私の席だった。
目が合いそうになる寸前、私は慌てて視線を落とし、机の上の消しゴムを無意味にいじり倒した。
「……おはよう、佐倉さん。今日は一段と、気配消そうとして必死だね」
不意に、隣の席から低く、楽しげな声がした。
三浦翔太くんだ。彼は椅子を傾け、片肘をついて私を覗き込んでいる。
「えっ、あ、……おはよう、三浦くん。……そんなことないよ」
「隠したって無駄だよ。君、さっきから一ノ瀬と如月に見られてるの、気づいてる? ……何かあったでしょ、昨日。試験明けの放課後、どこに行ってたの?」
三浦くんの観察眼は、相変わらず鋭すぎて心臓に悪い。
私は冷や汗を拭いながら、「どこにも行ってないよ、疲れて寝てただけ」と嘘をついた。
だが、三浦くんは信じていない。彼は教室内の妙な緊張感を敏感に察知し、獲物を見つけたような笑みを浮かべていた。
一時間目から四時間目まで、私は生きた心地がしなかった。
移動教室の廊下。
向こうから、野球部の連中を引き連れて歩いてくる橘駆くんの姿が見えた。
彼はいつも通り、騒がしく笑いながら歩いていたが、私とすれ違う瞬間、その足を僅かに止めた。
「……お、佐倉」
言いかけて、彼は周囲の部員たちの視線を気にするように口を噤んだ。けれど、すれ違いざまにグッと親指を立て、不敵な笑みを向けてきたのを私は見逃さなかった。
(……やめて! お願いだから、話しかけないで……っ!)
昼休み。私は人混みを避けるように、屋上の隅で一人でパンをかじった。
けれど、そこにも「音」は追いかけてくる。
特別棟から流れてくる、ピアノの旋律。
千ヶ崎響くんが奏でるその音は、いつもよりも僅かに柔らかく、どこか昨日の『琥珀』に流れていたジャズのリズムをなぞっているかのように感じられた。
誰もいないはずの屋上で、私は一人、震えていた。
彼ら四人にとって、私はもう「背景」ではない。
路地裏の喫茶店で、誠司さんに怒鳴られながら、ドジをして走り回る「一人の女子生徒」として、はっきりと認識されてしまった。
学園での透明な平穏と、店での明るい労働。
その境界線が、硝子細工のように脆く、崩れ去っていく。
午後の授業も、ただの苦行でしかなかった。
先生の言葉は頭に入らず、ただひたすら、早く放課後が来るのを待った。
店へ戻りたい。あの、誰にも邪魔されない琥珀色の空間で、誠司さんと一緒に働きたい。
そこなら、私は「背景」であることを強要されない。けれど、今の学園にいる私は、かつてないほど「背景」であることを欲していた。
ようやく、終礼を告げるチャイムが鳴り響いた。
私は誰よりも早く、それこそ脱兎のごとき速さで鞄をまとめ、教室を飛び出した。
背後で三浦くんが何かを叫んだ気がしたが、止まらない。
廊下を駆け抜け、昇降口へ。
下駄箱の扉を乱暴に開け、自分の上履きと靴を履き替えようとした、その時だった。
「……そんなに急がなくても、逃げないよ」
すぐ背後で、聞き慣れた声がした。
けれど、それは昨日の路地裏で聞いた掠れた声ではなく、学園の誰もが熱狂する、あの煌びやかなアイドルの声だった。
私は全身を硬直させ、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、フードもサングラスもしていない、完璧な制服姿の如月奏くんだ。
周囲にはまだ、下校途中の生徒たちが大勢いる。女子生徒たちが「え、如月くん……?」と、異変に気づき始めていた。
「如、如月……くん……。なんで……」
「昨日は、ありがとう。……あ、お水の話ね」
彼は一瞬だけ、私にしか見えないような悪戯っぽいウインクをした。
そして、周囲に聞こえないほどの低い声で、けれど断定的な口調で告げた。
「今日。放課後。……また、あの店行くから。待ってて、陽葵ちゃん」
名前を、呼ばれた。
学園の誰もが知らない、私の名前を。
「あ、……っ」
私が何かを答える前に、如月くんは颯爽と踵を返し、何事もなかったかのようにファンの群れへと消えていった。
後に残されたのは、凍りついた私と、周囲からの「あの子、今如月くんと何話してたの……?」という、針のような視線の束。
平穏な日常が、音を立てて砕け散った。
私は震える足で、なんとか校門を抜けた。
店へ行かなければ。
でも、そこにはもう、私が昨日まで信じていた「隠れ家」としての静寂はないのかもしれない。
夕暮れの街を走りながら、私は自分の運命が、あの路地裏の喫茶店を中心に、制御不能な速度で回り始めたことを悟った。




