第八話(後編):聖域の飽和と、背景の崩壊
佐倉 陽葵:バイト 佐倉 誠司:店主
如月 奏:アイドル 一ノ瀬 蓮:インテリ
橘 駆:スポーツ 千ヶ崎 響:ピアニスト
カランコロン。
本日、何度目かのドアベルの音が、夕闇の迫る店内に響き渡った。
(……えっ。また、学園の制服……?)
私は胸元でトレイをぎゅっと握りしめ、入り口へと視線を向けた。
逆光の中に立っていたのは、見慣れた紺色のブレザー。肩幅の広い、均整の取れたシルエット。フードを深く被り、周囲を射抜くような鋭い視線を隠しもせず、その人物は迷うことなく奥の席へと歩を進めた。
(……如月、奏くん……!?)
私の喉の奥が、ヒリつくような緊張で固まった。
一組三十五人の教室で、常に銀河の中心にいるはずのトップアイドル。その彼が、今、目の前の一番影になった席に、泥のように沈み込んでいる。
彼は私の顔を見ることもなく、ただ低く、掠れた声で呟いた。
「……一番、苦いコーヒーを」
「あ、……はい。かしこまりました」
私は心臓のバクバクを必死に抑え、カウンターへ戻った。
誠司さんは相変わらず不愛想に豆を挽いているが、その隣で私はパニック寸前だった。今日がバイト初日だというのに、最初の「特別な客」が、よりによって彼だなんて。
だが、混乱はそれだけでは終わらなかった。
わずか数分後、再びドアベルが鳴ったのだ。
カランコロン。
今度入ってきたのは、眼鏡の奥に冷徹な知性を湛えた、一ノ瀬蓮くんだった。
彼はいつものように難解な本を片手に、淀みのない足取りで空いている席を探し――そして、先客である奏くんの姿を認めて、その足を止めた。
「……如月か」
「……っ。一ノ瀬……なんでお前が」
フードの下から奏くんが顔を上げ、二人の視線が空中で激突した。
教室内でも滅多に交わることのない「正反対の頂点」が、この狭い喫茶店で火花を散らしている。
私は新しいお水のグラスを手に、その場に釘付けになった。
「あ、……いらっしゃいませ。こちらの席へ、どうぞ……」
私が震える声で案内すると、一ノ瀬くんの視線が初めて私に向けられた。
彼は無言で私を見つめ、それから制服のネクタイを僅かに直し、奏くんから一つ置いた席へと腰を下ろした。
「……失礼いたします。お水です」
私はグラスを置く手が震えないよう、細心の注意を払った。
だが、さらに追い打ちをかけるように三度目のベルが鳴った。
カランコロン!
今度は勢いが違った。扉を押し開けて入ってきたのは、背の高い、スポーツバッグを肩に担いだ橘駆くんだ。
「誠司さーん! 試験終わったぜ! ……って、えっ。如月に一ノ瀬……? おい、何の集まりだよこれ!」
「橘……お前まで来たのか」
奏くんが絶望したような声を出し、一ノ瀬くんはさらに眉間の皺を深くした。
駆くんは呆然と店内を見渡し、そしてカウンターの端で固まっている私と目が合った。
「……え、佐倉? お前、なんでここに……」
「あ、……バイトだよ! 今日から、ここで……」
私は必死に声を振り絞った。
だが、事態はさらに加速する。四度目の、そして最後の一撃。
カランコロン……。
まるで雨だれのように静かに、けれど確かな存在感を持って、千ヶ崎響くんが滑り込んできた。
彼は店内の異様な光景を一瞬で把握し、薄く笑みを浮かべた。
「……ふぅん。みんな、ここが『逃げ場』だったんだ。……趣味が合うじゃない」
「響……」
奏くんが呻く。
狭い店内に、学園の四人の王子様が集結してしまった。
一人はアイドル、一人はインテリ、一人はエース、一人はピアニスト。
それぞれが放つ圧倒的な「主役」のオーラが、琥珀色の店内に充満し、空気の密度を異常なまでに高めている。
(……やばい。このままじゃ、お店の雰囲気が……)
私は誠司さんの背中を盗み見た。
彼は一切の動揺を見せず、淡々とお湯を注ぎ続けている。その職人的な背中が、「仕事に戻れ」と言っているように感じた。
「よしっ……!」
私は覚悟を決めた。
背景になど、なっていられるか。
ここは私の、誠司さんと志乃さんの大切な仕事場なのだ。
「皆さん! いらっしゃいませ!」
私はわざとらしく明るい声を出し、王子様たちの「睨み合い」の中に割って入った。
「あ、橘くん、大きな声出すと誠司さんに怒られますよ! お水、どうぞ。千ヶ崎くんも、空いている席へ失礼します!」
私は止まらなかった。
奏くんの前の空になったグラスに水を足し、一ノ瀬くんの前にはメニューを置き、駆くんのスポーツバッグを「他のお客様の邪魔になりますから」と足元に寄せるよう促した。
もちろん、今日が初めての接客だ。
心臓は今にも口から飛び出しそうで、手はガタガタと震えている。
「わわっ、すみません!」
勢い余って、自分の足に躓きそうになり、トレイを天板にぶつけてしまった。
「ガタッ!」という大きな音が、ピリついていた店内に響き渡った。
「……ぷっ」
最初に吹き出したのは、奏くんだった。
「あはは……。君、本当に……学校でのあの気配のなさは何だったの? 別人すぎるだろ」
「……不合理な動きだ。だが、静寂が乱されるほどではないな」
一ノ瀬くんも、呆れたように口角を緩めた。
「佐倉、お前……誠司さんのところでバイト始めたのか。全然イメージ湧かねーけど、そのドジなとこだけは、なんか納得だわ」
駆くんが少しだけ笑い、店内の重苦しい空気が一気に霧散していく。
「……音楽的には、不協和音だね。でも、退屈はしなさそうだ」
響くんも、いつもの気だるげな表情を崩して、私を面白そうに眺めている。
王子様たちの視線が、一斉に私に集まった。
それは学園で向けられる「背景への無関心」ではない。
一人の「佐倉陽葵」という人間への、戸惑いと、興味と、そして初めて向けられる「認識」の視線。
「おい、陽葵。手が止まってるぞ。さっさと準備をしろ」
カウンターの奥から、誠司さんの低い声が響く。
「は、はーい! すみません!」
私は顔を真っ赤にして、四人の王子様のために珈琲を淹れる誠司さんのサポートに走った。
奏くんには、希望通りの深い苦味を。
一ノ瀬くんには、何も言わずとも静かな提供を。
駆くんには、部活帰りの渇きを癒やすような準備を。
響くんには、誠司さんが選んだ志乃さんゆかりのカップを添えて。
四人が、それぞれバラバラに、けれど同じリズムで珈琲を啜る。
学園の頂点に立つ彼らが、この狭い喫茶店で、一人のドジな店番に翻弄されながら、静かに息をついている。
「……あ、如月くん。サービスでクッキー付けておきました。試験、お疲れ様です」
「……ありがとう、佐倉さん。……明日、学校で無視しないでよ?」
奏くんのその一言に、他の三人がピクリと反応した。
私の「背景」としての平穏な日々は、今、この瞬間、音を立てて終わりを迎えた。
けれど、トレイを握りしめ、四人の王子様に囲まれて忙しく立ち回るこの時間は、今までのどんな放課後よりも、琥珀色の輝きに満ちているような気がした。
「明日も、また来てくださいね」
私の初めての接客の声が、夕暮れの『琥珀』に響き渡る。
銀河系の中心にいる彼らが、一人の「背景」を見つけてしまった、運命の放課後。
私の本当の物語は、ここから、さらに加速していく。




