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出社日

月に一度の出社日は、私にとって「戦場」へ赴くのと同義だ。

駅の改札を抜けた瞬間から、私はスマートフォンの画面を凝視する。

下を向いてさえいれば、少なくとも、すれ違う「何か」に気づかれることはない。


アスファルトの上を歩く、幾多の靴音。

私は心臓の鼓動を抑え、無機質な機械になったつもりでそれらをやり過ごす。同情も嫌悪も抱いてはいけない。意識を向けた瞬間に、彼らは「見られている」ことを察知するから。


だが、オフィスの自動ドアを抜けた瞬間、私の平穏はあっけなく崩壊した。


「あ、お久しぶりです、牧野さん。髪、切ったんですね。すごく似合ってます」


爽やかで、非の打ち所のない清潔感に満ちた声。

私は反射的に、顔を上げてしまった。


目の前には、新人の坂本くんが立っていた。

仕立ての良い紺のスーツを完璧に着こなし、爽やかな笑顔を浮かべて――逆立ちの状態で。


「……あ、ありがとう」


私の声がわずかに震える。

坂本くんは両手で器用にバランスを取りながら、逆さまになった顔で私を見上げていた。重力に従って垂れ下がるはずのネクタイは、なぜか彼の胸元に張り付いたままだ。


何より恐ろしいのは、その瞳だった。

逆さまになった彼の両目は、私の顔など見ていない。タイトスカートの裾、膝裏、そしてストッキング越しに透ける肌の質感。

彼は顕微鏡で這い回る微生物を観察するような、異様な、病的と言ってもいい執着を込めて、私の下半身を凝視し続けている。


「……最近、いろいろあってね。気分転換」


私は視線を逸らし、逃げるようにエレベーターホールへ向かった。

しかし、そこにはすでに先客がいた。


「お、牧野君。久しぶりだね。なんだ、失恋でもしたか?」


声の主は課長だった。彼もまた、坂本くんと同じように、ごく当然の作法であるかのように逆立ちで並んでいる。

二人の男が、スーツの裾を天井へ向け、真っ赤に充血した顔で私を囲む。


「……いえ、ただ切っただけです」


「ははは、相変わらずつれないねぇ」


課長が笑う。裂けたような口から漏れる吐息は、腐敗した果実が発酵したような、甘ったるい死の匂いがした。

彼は笑いながら、やはり私の腰から腿にかけてのラインを、舐めるように見つめている。


チーン、という抜けるような高い音が響き、扉が開いた。

密室。

逃げ場のない鉄の箱の中に、私は二人の「逆立ちした男たち」と共に乗り込む。


エレベーターの三面を覆う鏡の中で、私一人だけが、滑稽なほどに「直立」していた。

隣にいる二人は、天井に向かってまっすぐ足を伸ばし、血走った眼球をぎらつかせながら、私の下半身をひたすら凝視し続けている。

その間も会話は途切れない。昨日の野球の結果。新しいプロジェクトの進捗。どこにでもある、あまりにも退屈で、吐き気がするほど日常的な雑談。

言葉が発せられるたび、湿り気を帯びた熱い吐息が、ストッキング越しに私の肌を撫でた。


(気づかれてはいけない)


私は手の中でスマートフォンを強く握りしめる。指先が白くなるほどに。

彼らにとって、私は「会話の相手」ではない。「観察対象」なのだ。


もし、私がこの異常な光景に耐えきれず、「なぜ逆立ちをしているんですか?」と問い詰めたら。あるいは、彼らの卑猥な視線を拒絶するような素振りを見せたら。


その瞬間に、この日常の仮面は剥がれ落ち、彼らは「捕食者」へと豹変する。


背中を嫌な汗が伝い、ブラウスが肌に張り付く。

エレベーターの階数表示が、心臓の鼓動よりもゆっくりと、あまりにも残酷な遅さで、上の階へと昇っていく。


彼らの吐息を、一欠片も吸いたくない。

私は喉の奥を固く閉ざし、浅い呼吸をさらに細くして、酸素を拒絶した。だが、静寂が深まるほどに、あの音が鮮明に鼓膜を侵食してくる。


――ズズッ……、ズッ。


剥き出しになった歯茎から、重力に逆らえず溢れそうになる唾液を、彼らが喉の奥へすすり上げる湿った音。

その音は、私の膝のすぐ裏から聞こえていた。


(……はやく、開いて)


階数表示が「12」を指し、電子音が救済のように鳴り響く。

扉が開いた瞬間、私は逃げ出すように外へ足を踏み出し、肺が焼けるほど激しく、外界の空気を飲み込んだ。




デスクに辿り着いたときには、背中のブラウスが冷たい汗で張り付いていた。

座ってしまえば、隣の席とのパーテーションがわずかな壁になってくれる。私は祈るような気持ちでPCを起動した。


「あ、千佳ちゃん。おはよー。今日、出社日被ったね」


横から軽やかに声をかけてきたのは、同僚の東堂さんだ。

彼女は「普通」だ。重力に従って椅子に腰掛け、マグカップのコーヒーを啜り、少し眠そうに目を細めている。

目に映る世界は、きっと清潔で、整然としたオフィスなのだろう。

彼女の「正気」という名のフィルターが、この空間をどう翻訳しているのか、私には想像もつかない。


私のPCに通知音が響く。彼女からの個人チャットだ。


『ねえ、今日の坂本くん、おしゃれじゃない? あのネクタイ、初めて見るね』


私は横目で坂本くんを見る。

彼はデスクの横で逆立ちしたまま、器用に足首を組んで「立って」いた。

真っ赤に充血した顔が床すれすれにあり、彼の視線は、隣に座る女性社員のふくらはぎを、獲物を狙う蛇のようにじっと見つめている。


『そうだね。センスいいと思う』


私は嘘を吐く。キーボードを叩く音だけが、私の世界の崩壊を食い止めていた。

彼が「おしゃれ」に見える東堂さんの、幸福な盲目が心の底から羨ましかった。


「……皆、おはよう。朝礼を始める」


始業の合図と共に、支店長の声が響く。朝礼だ。

オフィスには40人ほどの社員が集まっている。


それは、筆舌に尽くしがたい光景だった。

スーツを着た男たちが、一斉に逆立ちをして床に両手をついている。革靴が天井を指し、林立する脚が奇妙な影を床に落とす。


「本日だが、対面だからこそ伝わる熱量を大切にしてほしい。コミュニケーションを密にすることで、見えてくるものがあるはずだ」


床から数センチの高さにある支店長の、不自然に歪んだ口が滑らかに動く。

彼の言葉とは裏腹に、その両目は、一番前に並んでいる新人の女の子の膝に、まるで吸盤でもついているかのように釘付けだ。


男たちは皆、逆立ちをしている。

その姿は、まるで「本能」という重力に耐えきれず、頭から地面に突き刺さっているかのように見えた。


「では、業務開始だ」


日常という名の狂気が始まる。

オフィスは活気に溢れていた。テレワークで溜まっていた案件を片付けるため、あちこちで「正常な」会話が弾んでいる。


私は、決して顔を上げない。

ただひたすら、ディスプレイの中に広がる「白」の世界に逃げ込んだ。


社内チャットツールの中だけが、今の私に残された唯一の聖域だ。

そこには、重力に逆らう肉体も、充血した眼球も、逆さまの怪物も存在しない。整理された、知的な文字列だけが、静かに流れていく。


『坂本です。資料の共有ありがとうございます。牧野さんのまとめ方、いつも勉強になります。助かります!』


チャットの向こうの坂本くんは、謙虚で優秀な新人だ。


『田中です。レビュー完了しました。指摘事項について、もし対応に悩む場合はチャットか、直接声をかけてくれても大丈夫です』


教育係の田中さんは、常に冷静で、部下への気遣いも欠かさない。


課長も、責任感が強く、理想的な上司だ。

『牧野、無理はするなよ。体調が悪ければすぐに言え。フォローは俺たちがする』


流れてくる文字は、どれも温かく、プロフェッショナルなものばかり。

私は、このディスプレイ越しの文字だけを「真実」として信じることに決めた。

キーボードを叩く指先の感覚だけが、私が「普通の世界」に繋ぎ止められている唯一の証拠だった。


(……見なければ、いないのと同じ。見なければ、起こっていないのと同じ)


私は自分自身に言い聞かせる。

チャットの奥にいる彼らは、真面目で、頼りになる仲間たちだ。

その「器(肉体)」がどれほど醜悪に歪んでいようと、私がその深淵に触れさえしなければ、この砂上の平穏は壊れない。


そう、私が「気づいて」さえいなければ。

私が「本質を見抜いてしまう力」を隠してさえいれば。


私は必死にチャットを打ち続ける。

画面の中の彼らは、いつも通り礼儀正しく、理知的だ。


不意に、画面が落ちた。

漆黒に戻ったディスプレイが、冷徹な鏡となって私を映し出す。


そこには、いつも通り「正しく」直立する私の姿があった。

そして、顔面の皮下で蠢く無数の「機能」たち。


ハスの花托のように密集した眼球が、独立した意思を持ってギョロギョロとディスプレイの隅々を、そして背後の天井を、同時並行で監視している。

40人の男たちの卑猥な視線を、毛穴の一つひとつまで逃さず捉えていたのは、この「正常な」私の、数えきれないほどの眼球だったのだ。


私は、震える指先で再び電源ボタンを押す。

早く、この「白く清潔な」チャットの世界に戻らなければ。


そうしなければ、顔中の目が一斉に、自分の醜悪さに気づいてしまう。

「気持ち悪い」

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