第8話 瓦解する記憶
その日、尚子が向かったのは田中香子の部屋だ。
扉を開けると、そこには別の時空が広がっている。膨大な量の新聞紙とチラシの山、そしてテレビ通販で買ったと思われる中身の分からないダンボール箱が、数十個も積まれている。それらは香子の記憶の断片のように、無秩序に部屋中に散らばっていた。
「香子さん、私と一緒に部屋を片付けましょう」
尚子の声は、閉じられた空間に小さな波紋を広げた。
「え?こないだ片付けたところでしょ、だけど?…」
香子の返事には、時間の感覚が歪んでいるような不思議な響きがあった。それは現実と記憶の間に存在する、薄い膜のようなものだった。
「兎に角、散らかってますよ。香子さん、惣菜のプラ容器をゴミ袋に入れましょう」
「こんな散らかしっぱなし!誰が?誰が置きっぱなしにしたの!」
香子の声は突然高くなった。まるで自分自身の部屋を初めて見るかのような驚きがそこにはあった。彼女の中では、この散らかった部屋は誰か他人の仕業だったのかもしれない。記憶は時に私たちを裏切り、現実を違う色に塗り替えてしまうことがある。
「私も片付けますし、香子さん一緒に手伝って、助けてください」
「あなたが言うなら、仕方ないわねぇ、手伝うわ」
そう言いながら、香子は自分自身がテーブルに放置していた朝食のプラ容器をゴミ袋に入れ始めた。その仕草には、日常の断片を取り戻そうとする静かな努力が見えた。
尚子は擦りガラスのように曇った窓ガラスを拭き始めた。すると不思議なことに、それを見た香子の表情が変わった。まるで長い眠りから覚めたように、彼女の顔に光が差し始めたのだ。
「そこの窓から外を眺めているのが好きでね。特に季節の変わり目が良いのよ」
香子の声は、遠い記憶の井戸から引き上げられたかのように、少しずつ力強さを取り戻していった。
「刻々と変化していく庭の木々たち、空の色、雲の形、日差しの強さも変わる。今は新しい命が生まれているのが感じられて、春の新緑命が身体に入ってくるみたい!気持ちいいわ!」
その言葉には、単なる事実を超えた何かがあった。それは香子が長い時間をかけて築き上げてきた、世界との対話の方法だったのかもしれない。
「香子さん素敵です!私も自然の変化は大好きです。季節ごとに違った風景が見られるのは、何か心が洗われる感じがしますよね。一緒に窓拭きしましょう!」
香子は微笑みながら尚子の言葉に大きく頷き、手渡された雑巾で窓を拭き始めた。すると突然、まるで古いラジオが周波数を捉えたように、香子の記憶が流れ出した。
「ここら辺の団地は皆んな、第二次ベビーブームの時に移り住んだ人たちばかり。子供達は家の中でも外でも道端でも走り回って遊んでたわ」
彼女の声には、消えてしまった世界への郷愁があった。それは存在しなくなった風景を、言葉だけで描き出そうとする試みだった。
「出来たばかりのスーパーに買いに行くのがカッコよくてね。仕立てたり生地から作ってた服が、スーパーで安く買えちゃうんだから!掃除機も洗濯機も炊飯器も何もかも、隣近所で競う様に商店街の電気屋さんで買ってきてね、文化的な生活だってね。鼻高々で移り住んでたのよ」
その言葉の連なりは、過去への扉を開いていた。尚子はそれを黙って聞きながら、掃除機をかけていた。時々、言葉よりも静かに聞くことの方が大切なときがある。
「そう言えば、お父さんは仕事かしら?」
香子の突然の問いかけに、尚子は返事をしなかった。40年以上前に離婚して以来、ずっと独身だということを彼女に伝えても、混乱させるだけだろう。記憶の迷宮の中で迷っている人には、時に真実よりも優しさの方が必要なのだ。
「さ、香子さん、キッチンも一緒に…」
声をかけ始めた時、尚子のスマートウォッチが鳴った。タイマーがあと10分を告げていた。時間は容赦なく進み、訪問記録も書かなければならない。尚子は猛スピードでキッチン床の掃除機をかけ、食卓上に食前薬とメモ書きを置いた。訪問記録を書いていると、香子の声が聞こえてきた。
「もう帰るの?寂しいわね」
その言葉には、過ぎ去っていく時間への哀しみが込められていた。それは誰もが感じる孤独の形の一つだった。
「香子さん、訪問介護の時間って決められているんです。すいません」
尚子は身支度を整えて訪問記録を片付け、挨拶をしようとした。その時、香子が不思議なことを言った。
「あなたって、月光仮面みたいね」
「え?げっこうかめん?」
「颯の様に現れて、颯の様に去っていく」
香子はいたずら顔で言った。
彼女の笑顔には、一瞬だけ若かりし日の面影が浮かんでいた。尚子は心の中で思った。この笑顔を長く守りたい。誰かがそばでもっと見守ってあげれば、認知症も酷くならないはず。なのにこの短い時間では…。