第7話 雪子と幸一 2
「雪子さん、できない事を手伝わせていただきます」
尚子は力強く言った。それは単なる仕事上の約束ではなく、人間としての誓いのようだった。
「そ、そうね。お願いね」
雪子の微笑みには、どこか遠い記憶の残響のようなものが感じられた。
雪子は下肢の感覚や排泄に障害を負っていた。彼女の体は、かつての自分自身と現在の自分との間に横たわる深い溝のようだった。尚子は雪子をベッド上に端座位にし、車椅子を足の間に差し入れて、残された足の力を利用してスムーズに移乗させた。それは二人の間に流れる見えない信頼の証でもあった。
「上手いのね。安心したわ」
「以前、施設で働いていたので慣れてるんです」
尚子はポータブルトイレを交換し、雪子を居間に連れていった。そこでは幸一が佐藤と話していた。彼の言葉には、長い年月をかけて蓄積された後悔と罪悪感が滲んでいた。
「美紀さん、私、これまで家族を疎かにしてきました。でも、妻がこんなになってしまってからは、彼女のために何かできることはないかと考えるようになりました。でも、正直、自分も骨折して腰も痛くて思う様に動けない。何をしていいのか、どう支えていいのか分からないんです」
幸一の告白は井戸の底から響いてくるようだった。そこには長い時間をかけて沈殿した真実があった。しかし、その真実を受け入れる準備ができていない人もいる。
「当たり前でしょ!今更、仲良くやろうよ!悪かった…なんて。家の事もどれだけ大変か分かるといいわ」
居間に入ってきた雪子の言葉は、穏やかな空気を切り裂いた。幸一は何も言わず、まるで逃げるように台所へ向かい、コーヒーを入れ始めた。そこには夫婦の間に横たわる見えない壁があった。時間は多くのものを癒すが、同時に深く刻み込まれた傷跡を残すこともある。
しばらくの間、雪子と尚子と佐藤の三人で雑談を交わした。話題は雪子の趣味や過去の生活、子育ての経験から、夫が帰ってこなかった夜の出来事にまで及んだ。それらの話は、雪子の人生の断片を少しずつ明らかにしていった。
尚子はトイレや風呂の掃除を始めた。その間も幸一は佐藤に自分の過去や雪子の病状について語り続けていた。尚子は耳を澄ませながら、幸一の言葉の奥に潜む罪悪感や責任感を感じ取った。彼の声には、取り返しのつかない時間への後悔が混ざっていた。
台所に入った尚子は、整然と並べられた道具や調理器具、無駄のないキッチンの佇まいに目を奪われた。カントリー風のビンや調度品も丁寧に配置されていた。そこには雪子の家事や家族への愛情、そして努力と豊かな感性が凝縮されていた。
「人って色々。夫婦って色々。何が良いって…わからない」
尚子は心の中でつぶやいた。世界には様々な夫婦がいて、それぞれに異なる物語がある。正解なんてないのかもしれない。あるのは、ただそれぞれの日々を精一杯生きることだけ。
「では、本日の身体介護と家事援助の支援はこれで終わりました。ありがとうございました!」
「こちらこそ、尚子さんありがとう!優しくしてもらえて嬉しかったわ」
松下夫妻は揃って玄関まで見送りに出てきた。その姿には、長い年月を共に過ごしてきた夫婦の絆が垣間見えた。たとえ言葉にはできなくても、二人の間には確かな繋がりがあるのだろう。
「ひだまりヘルパーの皆さんのおかげで、毎日がずっとずっと心が楽に、豊かになった!こうやってポツンと寂しく2人きりでいる年寄り夫婦にとって、外からヘルパーさんが来てくれるのは、爽やかな風が入ってくるみたいなもんだよ!これからも頼むよ!」
幸一の言葉には、心からの感謝と、かすかな孤独感が混ざっていた。尚子はペコリと頭を下げながら「ありがとうございます」と答えた。その言葉には単なる社交辞令ではない、心からの思いが込められていた。
帰り道、佐藤と尚子は微笑みながら歩いていた。二人の間には言葉にならない満足感が流れていた。
「佐藤さん、ありがとうって言われるのってやり甲斐ですね」
「そうね。何回やっても…辞められないわね!」
佐藤の言葉には、長年この仕事をしてきた者だけが知る真実が込められていた。尚子は心の中でつぶやいた。
「ひょっとして、訪問介護って自分が思ってるより凄い仕事?」
その問いかけには答えがなかった。ただ、これから日々の中で少しずつ見つけていくべき真実なのだろう。陽光が二人の長い影を路上に落としていた。それはまるで、今日という一日の記録を大地に刻んでいるかのようだった。