第6話 雪子と幸一 1
佐藤は資料をテーブルに広げた。資料には、訪問する利用者の情報、必要なケアの詳細、そして訪問介護員が注意すべきポイントが丁寧にまとめられていた。それらの情報は、未知の人生への地図のようだった。
佐藤の訪問先についてのレクチャーが始まった。
「今日同行訪問するのは、松下さんというご夫婦のお宅です。奥様の松下雪子さんは要介護3で、おむつ交換が必要ですが、夫の松下幸一さんが基本的に介護をしてらっしゃるので、幸一さんができない生活援助中心のプランになっています」
佐藤の声は穏やかだが、そこには確かな専門性と経験が感じられた。
「しかし、夫の松下幸一さんは最近、膝の手術をされたばかりで、お二人の生活援助と奥様の身体介護にも支援が必要です」
尚子はメモを取りながら、佐藤の話に耳を傾けた。膝の手術、奥様の介護、生活援助…それらの言葉は現実の重みを持って、彼女の心に沈んでいった。
「松下幸一さんは、とても気さくな方で、話し相手をとても喜ばれます」
佐藤の口調が少し柔らかくなった。
「限られた生活援助の時間や必要な身体介護の時間内に限られるけど、村田さんの人生経験や人柄を活かした会話をして、利用者様一人ひとりに合わせたケアを心掛けてくださいね」
2人は松下夫婦宅の前に立った。
陽光が柔らかく松下夫妻の家の窓ガラスに触れている。家の入り口の横には、季節の花が植えられている。丁寧に育てられたその花々。
ひだまりヘルパーの制服であるピンクのトレーナーを着た尚子は、佐藤の隣で玄関のチャイムが鳴る音を聞いている。彼女は息を整えながら、これから起こることへの緊張と期待を同時に感じていた。
「はい!いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください!」
ドアが開き、松下幸一の姿が現れた。彼の声は、尚子が想像していたよりもずっと柔らかい。その声には何か遠い過去の記憶のような温かみがあった。彼はまるで長い間待っていたかのように2人を迎え入れた。
「初めまして、ひだまりヘルパーの村田尚子です。どうぞよろしくお願いします」
尚子は佐藤に促されるように家の中に足を踏み入れた。そこは彼女にとって未知の領域であり、同時に奇妙な既視感を覚える場所でもあった。
「ああ、よろしくね。待ってましたよ。どうぞ、入ってください」
幸一は丁重に歓迎するように笑顔を見せた。しかしその笑顔の裏には、何かが隠されているようだった。疲れだろうか、それとも諦めだろうか。尚子にはそれが何なのか、まだ分からなかった。
廊下の壁面には、色とりどりの手作りのドライフラワーが飾られていた。それらは誰かの時間と記憶の断片のようで、尚子は思わずその色彩に見入ってしまった。リビングの壁には、松下夫婦や息子、娘や孫と思われる集合写真が飾られている。それらの写真からは、時間が流れ去った瞬間の喜びや、もう戻らない日々の輝きが感じられた。
幸一は二人を奥の部屋へと導いた。そこには彼の妻、雪子がいた。
「雪子、来てくれたよ!新しいヘルパーさん、村田さんだよ」
「松下さん、初めまして、村田尚子と申します。今後は私もお手伝いさせていただきますので、よろしくお願いします」尚子は丁寧に挨拶した。
初めて見る雪子の目は、まだ見ぬ世界への好奇心と、何かを失った悲しみが同居しているように見えた。
「ありがとう、よろしくね。優しい声なのね」
雪子の言葉にはほのかな笑みが含まれていた。それを聞いて、尚子の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。時々、人は声だけで他者の本質を見抜くことがある。雪子はそういう特別な感覚を持っている人なのかもしれない。
雪子の部屋は、彼女の内面世界を映し出すようだった。壁はドライフラワーや手作りの装飾品で彩られ、それらは彼女の人生の足跡を静かに語っていた。部屋の隅には裁縫のための小さなスペースがあり、ミシンにはカバーがかけられていた。そのカバーの端からは、縫いかけと思われる端切れがはみ出していた。まるで中断された物語のように。
尚子の視線を感じたのか、雪子が急に慌てた様子で言った。
「あらやだ、汚くしててみっともないわ!」
「みっともないなんて、この位で」
尚子は打ち消すように言いながら、以前訪れた田中香子の塵が積もったカビ臭い部屋を思い出していた。人の住まいは、その人自身を映す鏡のようなものだ。香子の家は彼女の断片化した記憶を反映し、雪子の部屋は彼女の過去と現在の狭間を物語っていた。
「雪子さん、ドライフラワーの飾りとっても素敵です。色の彩りも素敵!雪子さんが作られたのですか?」
「ええ、そうよ。あれは、私の大切な時間の結晶みたいなもの。見ているだけで幸せな気持ちになるわ」
雪子は目を輝かせながら答えた。その瞬間、彼女の表情が若返ったように見えた。記憶と時間は不思議なものだ。過去の輝きを思い出すだけで、人は別の存在になることができる。
「村田さんは、お花が好き?」
「はい、とても。花は人を癒してくれますよね」
「そうね、人の心を癒やす力があるわ。それも、今は思う様に手が動かせなくなって作れないけど…昔は全部作れていたのに、趣味も家事も、全部自分でできたのに、今はね...」
雪子の言葉は途中で消えていった。それは終わらない文章、完結しない物語のようだった。しかし尚子は、その省略された部分に込められた感情を感じ取ることができた。