第5話 敵と味方
春の柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込んでいた。それは部屋の床に小さな光の四角形を作り、そこだけが別の世界への入口のように見える。
「慎二、起きなさいよ」
尚子の声は優しく、しかし確かな存在感を持って空気を震わせた。慎二はゆっくりと目を開け、まだ夢の断片を抱えたままの表情で尚子を見上げた。彼女は笑顔を返した。その瞬間、母と子の間に見えない何かが流れた気がした。
朝の支度は、いつもシングルマザーにとって静かな戦いだった。一人で子育てをしながら仕事に向かう日々。それは決して容易ではないけれど、尚子は前向きに受け止めていた。時々、彼女は考える。日本中、いや世界中の女性たちが、どうやってこの激務をこなしているのだろう、と。その問いに対する答えはいつも彼女の手の届かないところにあった。
慎二の朝食を済ませ、学校へと送り出した後、尚子は出勤前の儀式に入った。鏡の前に立ち、そこに映る自分自身と対話するような時間。それは彼女にとって、一日を始める前の大切な瞬間だった。
今日の服装は、グレーのストレッチパンツに白いブラウス、それにネイビーのニットを合わせた。シンプルだが機能的な組み合わせ。ボブカットの髪に少しだけ整髪料をつけて整える。
「今日もまた私の頑張りが試される。けど、悔いのない様に生きよう。私」
鏡に映る自分に向かって言い聞かせた。その言葉は、誰かに宛てた手紙のようでもあり、また祈りのようでもあった。
家を出ると、尚子は深く息を吸い込んだ。朝の空気には不思議な力があって、それは彼女の体の中に静かに流れ込み、これから始まる一日への活力を与えてくれた。ひだまりヘルパーへと向かう道すがら、彼女は心の中で今日のスケジュールを確認していた。
「今日もたくさんの人の役に立てるんだわ」
そんなことを考えながら歩いていると、前方から見慣れた姿が現れた。高橋だ。同い年で、尚子がひだまりヘルパーで働き始めてすぐに仲良くしてくれた先輩。彼女は尚子にとって、この新しい世界における最初の光のような存在だった。
「おはよう、尚ちゃん!早いね」
高橋の笑顔には温かみがあった。それは冬の日に感じる陽だまりのようだった。
「おはよう先輩!ゆりちゃん!新人は、早く事務所に来てないと印象悪いし、仕方ないね」
尚子は軽く舌を出した。二人の間には、言葉にならない理解があった。
「ゆりちゃん、それ『アネロ』のバックパック?」
「そう!シンプルで可愛くて機能的で好きなんだぁ」
高橋はゆっくりと鞄の中から高齢者ケアの資料や薬事典、緊急時用医療用品を取り出した。それらは彼女が長年の経験から必要だと感じたものだろう。
「うわ!さすが先輩!プロだ!私なんて…」
尚子は『MUJI』のトートバックからCampusノートを取り出した。それは彼女がまだ旅の途中にいることを示しているようだった。
「尚ちゃんも実用品を鞄に入れてる!二人ともシンプルな鞄!なんか私たち、似てるね!」
二人は声を合わせて笑った。その笑い声は朝の空気に溶け込んでいった。
しばらく並んで歩きながら、彼女たちは息子のこと、共通の趣味のこと、鞄や服のことなど、様々な話題で盛り上がった。時間はあっという間に過ぎ、気づけばひだまりの事務所の前に立っていた。
玄関先で、高橋が尚子の腕を軽く引いて止めた。彼女の表情が急に真剣になる。
「春田さんが今日は朝から事務所の筈なんだけど、こないだ言った通り、ちょっと…」
高橋は言葉を濁した。その言葉の途切れに、何か言いたくても言えないものがあるようだった。
「春田さん、要注意ってことですか?」
「うん、覚えてたら良い。弱みを見せるとハイエナみたいに食いついてくる!マトモに相手したらダメ!屁理屈で論破してくるから、何でもハイハイ、だよ」
尚子は高橋の言葉を心の中で反芻した。そこには感謝の気持ちと同時に、春田という人物に対する漠然とした緊張感が生まれていた。
高橋の後に続き、尚子は深呼吸をして事務所の扉を押し開けた。心臓の鼓動が少しだけ速くなったのを感じた。
「おはようございます!」
尚子の明るい挨拶が、まだ静かな事務所内に響いた。それは小石が落ちた時に水面に広がる波紋のようだった。
「…おはようございます」
春田真由美が奥のデスクから顔を上げ、一瞬の間をおいてから返事をした。その間には、何か言いようのない緊張感があった。
尚子は初対面の挨拶をしようと、春田真由美の机へと歩み寄った。未知のものに対する好奇心と警戒心が入り混じった気持ちを抱えながら。
「村田尚子と申します。どうぞよろしくお願い…」
春田は尚子の言葉を遮るように口を開いた。
「あの、村田さん。こないだの田中香子さんのお宅でのことだけど…」
春田の声には厳しさが込められていた。それは冷たい風のようだった。
尚子は心の準備をしながら、春田の言葉に耳を傾けた。「はい、何か問題がありましたか?」
「問題があるというか…」
春田は少し言葉を濁しながら、尚子の目をじっと見つめた。その視線には何か深い井戸のような暗さがあった。
「利用者にプライベートの話をすることについてなんだけど、あなた、香子さんに離婚の理由を話していたそうね!昨日、訪問時に香子さんがそう言ってたわ!」
尚子は一瞬、言葉を失った。確かに田中香子との会話の中で、自然と心を開き、自分の経験を共有していた。それが、そんなに問題になるのか?と彼女は思った。しかし春田の視線には、氷のような厳しさがあった。
「ええ、そのとおりです。でも、香子さんに信用してもらわないと…」
「村田さん!利用者との関係はプロフェッショナルでなくてはならないの!私達の仕事は、利用者との心のケアも含まれているけれど、自分のプライベートを話すことで利用者を巻き込むのは避けなければならないのよ!」
春田の言葉は、間違ってはいなかった。しかし、尚子はその言葉の裏にある意図を感じ取った。なぜわざわざ、入職したての新人を朝から正論で叱るのか。そこには何か別の感情が隠されているように思えた。
「わかりました。今後は気をつけます」
尚子は声を落として答えた。高橋の助言通りに反論しないようにしようと思った。しかし、湧き上がる疑問を抑えきれず、言葉が口をついて出た。
「多少のプライベートな話も絶対ダメなんですか?信頼関係がない…」
尚子の問いかけを無視するように、春田は大きな声で続けた。
「それと!訪問介護記録の書き方!もう少し丁寧にね!あなたの報告書は情報が足りない!具体性がない!誰が、何を、どうやって、5W1H…」
春田の言葉は尚子の思いを無視し、ただ追い詰めるだけのように感じられた。尚子の心は重く沈んでいった。何を言ってもダメなのだ。これが、ゆりちゃんが注意してくれていたことだったのだろう。
その時、事務所の扉が静かに開き、佐藤美紀が入ってきた。彼女の穏やかな笑顔は、曇った部屋に差し込む一筋の光のようだった。尚子は自分の緊張が少し和らぐのを感じた。
「皆さんおはよう!…あ、春田さん?朝から何かあったの?」
佐藤は冷静に尋ねながら、春田と尚子の間に立った。彼女の存在は、二人の間に流れる目に見えない緊張を和らげるようだった。
「あ、いえ、訪問介護記録の書き方について村田さんに話していました」
春田は少し言葉を濁しながら答えた。その様子はまるで、水面下に何かを隠しているかのようだった。
「村田さん、ちょっといい?」
佐藤は尚子に穏やかな笑顔を向けながら声をかけた。その瞬間、尚子は自分の心が軽くなるのを感じた。まるで重い荷物を誰かが肩代わりしてくれたような感覚。
「はい、何でしょうか?」
「今日の訪問先について確認しましょう」
佐藤はそう言うと、尚子を隣の小会議室へと誘った。その動きは自然で、まるで川の流れのようだった。
小会議室に入ると、佐藤は目を細めて微笑んだ。
「一定以上のプライバシーに関わる会話には気をつけて、ね」
その言葉には、先程の春田とのやり取りへの優しい配慮が込められていた。尚子は満面の笑みを返した。その瞬間、彼女は自分が孤独ではないことを感じた。
「尚子さん、何か不安なことや心配なことがあれば、いつでも私に相談してくださいね。私たちはチームですから」新人ヘルパーが直面しやすい困難や疑問について触れ、いつでも相談に乗ると伝えた。その言葉には、ただの社交辞令ではない、本物の温かさがあった。
「ありがとうございます、佐藤さん。頑張ります!」
尚子は心からの感謝を込めて答えた。