第4話 仲間
「ただいま」
尚子は少し俯き加減で事務所に戻った。
「初日お疲れ様でした!疲れたでしょ?」
先に戻っていた高橋ゆりが笑顔で尚子に声をかけた。彼女はコーヒーカップをテーブルに置きながら、リラックスした様子で話し続けた。
「今日は田中香子さんだったんでしょ?認知症のお世話は、精神的にも体力的にもかなり要求されるから、大変だよね」
尚子は苦笑いしながら頷いた。それは「はい」という返事のようでもあり、自分自身との対話のようでもあった。
「はい、特に大丈夫だったんですが、娘さんの態度にちょっと気を取られちゃって...」
ゆりは優しい笑顔で尚子に視線を向けた。その目には、何か特別な理解が宿っているようだった。
「認知症に対する理解と本人への対応、そして家族への対応ね。難しいけど、この両立はヘルパーの仕事の核心の1つだよ」
ゆりの言葉には、長年の経験に裏打ちされた確かな重みがあった。
「香子さんみたいに記憶が曖昧な方は、不安を感じたりすることが多いから、安心できるような話題選びや、話し方、寄り添う姿勢を伝えるのが大切だよ。けど、感情にはとても敏感だから、気づいていることも多くて、バカにできない。そして、娘さんの厳しさも、彼女なりの思いや愛情の裏返しなんだと思う。認知症の方とその家族を裁かずに、両方をサポートするのが私たちの役目だからね」
尚子は真剣な表情で頷きながら聞いていた。しかし彼女の頭の中は、この日の様々な出来事で満ち溢れていた。それは整理されないまま、ただそこに存在している情報と感情の渦のようだった。
「ありがとうございます、ゆりさん。もっと学びたいと思います」
「無理しなくていいわよ!あと、尚ちゃんって呼んで良い?同い年でしょ。私の事もゆりって呼んで良いし」
「ありがとう!助かります!ゆり先輩!ゆりちゃん!」
ゆりは急に周囲を見回し、尚子に顔を近づけた。彼女の声は小さく、しかし確かな響きを持っていた。
「あなたは来たばっかだから、佐藤さん言わないだろうし、私が言っとくね。春田さんには要注意よ」
ゆりの声には警告の響きがあった。
「彼女は上っ面は親切そうに見えるけど、実は風見鶏みたいに節操なくおしゃべりだし、意地悪だし。失敗とかミスを待ち構えて食いついてくるから、絶対気を許しちゃダメだよ」
尚子の表情が曇った。ゆりはそれに気づいたのか、急に表情を明るくした。
「でも、心配しないで。尚ちゃんが私と同年で、これから仲良くやっていけることがすごく嬉しいんだから。私たち、仕事以外のことでもいろいろ話せるといいね」
「うん!嬉しい!」
尚子の顔に笑顔が戻った。それは心から湧き上がる安堵と喜びの表現だった。心強い味方を得た感覚。それは、この新しい環境で生きていくための大きな支えになるだろう。
「村田さん!今日の記録をしてしまって、早く家に帰ってあげてね!」
佐藤が会議室から顔を出し、尚子に声をかけた。
「あ、はい!すいません!」
尚子は、同年の気を許せる高橋ゆりと信頼できる佐藤の存在に心強さを感じた。2人との縁に恵まれ、初日の疲れにもかかわらず、彼女はこの仕事をやっていける自信が生まれていた。
「あ、それと、村田さん!」
「はい?」
「初対面の認知症の人相手に離婚の理由を話すのはどうなの?と思ってビックリしちゃったけどさ。香子さん、あれであなたの事直ぐに信用してたわね。結果としてはOK!ってことね。ま、それも明日には忘れてるだろうけど」
尚子はゆりと顔を見合わせて、声を上げて笑った。その笑い声は、この日の緊張と不安を溶かしていくようだった。
笑いが収まった後も、尚子の心の中には香子の言葉が残っていた。
「後悔しないように、幸せに生きること」。
それは単なる言葉ではなく、彼女自身が人生から学んだ教訓のようだった。そして今、その教訓は尚子の心の中で、新たな意味を持ち始めていた。
帰り道、尚子は空を見上げた。雲が少し動き、日が差し始めていた。その光は、ちょうど彼女の目の前にある道を照らしているように見えた。