第29話 記憶をつなぐ仕事①
梅雨の晴れ間のような朝。
湿度の抜けた空気が、路地の先まで透き通るように続いていた。
田中香子の家の玄関戸を引き開けた瞬間、尚子は足を止めた。
— 声がする。
廊下の奥、居間の方から、誰かに話しかけるような低い声が漏れてきた。テレビではない。人の声でもない。いや、香子の声だ。しかし、その声が向けられている先には、誰もいないはずだった。
「香子さん、失礼します」
廊下を進むと、香子は窓の前に立ち、ガラスに両手をついて、外を見つめていた。体は細く、背は小さく、それでも何かを求めるように前のめりになっている。その後ろ姿には、どこか切迫した色があった。
「あなた、早く帰ってきてよ!もう夕飯できてるのに…」
窓の向こうの、住宅街に向かって言っていた。—誰に話しかけているのか。夫? それとも子供の頃の記憶か。
尚子は急がなかった。真っ直ぐに香子の隣に近づき、同じように窓の外を眺めた。朝の陽が、住宅地の屋根をひとつひとつ、金色に縁取っていた。
「香子さん、いい天気ですね」
香子はゆっくりと振り向いた。その目はまだ遠くを見ていたが、尚子の顔を捉えた瞬間、何かがゆるゆると解けるような間があった。
「……あら、誰かしら?」
「ひだまりの村田尚子です。いつも来ている、尚子です」
香子は首を少し傾けた。焦点が、ゆっくりと合ってくる。
「ヒ、サコさん……そう、ヒサコちゃんね」
名前を思い出してくれた。もしくは、繰り返しただけかもしれないが、尚子は少し安堵した。
「香子さん、外の木が揺れてますね。風があるみたい」
窓の向こうで、ケヤキの葉が光を弾きながら揺れていた。香子はもう一度、窓の外に目をやった。そしてぽつりと言った。
「このあたりは、昔、みんな木を植えてたのよ。区画整理でたくさん切られちゃったけど」
声が少し落ち着いていた。遠い場所から、今、ここへ。記憶の糸が窓の外の景色につながって、香子を引き戻してくれたのかもしれなかった。
尚子は部屋を見回した。テーブルの上の薬は、昨日の分も一昨日の分も、そのまま残っている。朝食の形跡はなかった。冷蔵庫には先週補充した牛乳が手つかずで立っている。
しかし今日、最も大きな変化は薬でも食事でもなかった。誰もいない空間に向かって話しかけていた、あの声だった。過去と現在が交差する、その混乱の深さが、尚子の中に静かな警戒を灯した。
「香子さん、朝ごはん一緒に食べましょうか。お腹すいてませんか?」
「…そうね、何か食べようかしら」
昨日もおそらく、ほとんど何も食べていなかったはずだ。
尚子はキッチンに立ち、冷蔵庫の中で使える食材を手早く確認した。卵、豆腐、のりの佃煮。それだけで十分だった。フライパンに油を引き、卵を割る。音を立てて焼ける。その音を聞いて、香子がキッチンの入り口まで来た。
「いい匂いね」
「香子さん、お味噌汁もありますよ」
二人でテーブルについた。香子は食べながら、どこかに戻ってきていた。
「主人がね」香子は急に言った。
「朝ごはんは必ず一緒に食べる人だったの。どんなに忙しくても。それだけは守ってたわ」
尚子は返事をしなかった。ただ、頷いた。香子の過去の温かさが、今の食卓に混ざり込んでいた。
訪問を終えて、尚子は事務所に戻った。窓口のガラス越しに、ひだまりヘルパーに隣接した武田孝介のケアマネジャー事務所の灯りが見えていた。
内線を取り上げた。
「武田さん、田中香子さんのことで少しよろしいですか」
すぐに武田がひだまりの小会議室に来た。ノーネクタイで、ジャケットの袖を少し捲っている。
「何があった?」
尚子は手帳を開き、今日の様子を伝えた。窓に向かって話しかけていたこと。誰に話しかけていたのかが分からなかったこと。食事が取れていないこと。服薬が数日分止まっていること。
「いつから混乱が強くなっていると思う?」
「確認できたのは今日が初めてです。ただ、先週来た時、窓の前に立っていつもより長く外を見ていました。あの時は窓の景色の話をしてくれたから気にしなかったんですが……今思うと、もう始まっていたのかもしれません」
武田は少し沈黙してから言った。
「先週の時点で気になっていた、それを報告してくれてよかった。すぐに主治医に連絡する。感染症か、環境変化か、原因を確認してもらう。優子さんにも連絡して、一度来てもらうよう頼んでみる」
「あの状態で一人でいる夜は、長いと思います」尚子は静かに言った。「誰かに夜も来てもらえれば……」
「夜間訪問の導入を検討してみる。そのためにはケアプランの見直しが必要だな。近く担当者会議を開こう…そして、もう一つ、考えなきゃいけない」
「もう一つ?」
「ああ、在宅も、限界かもしれないな…って事」
武田は短く、しかし確かに答えた。それ以上の言葉は要らなかった。




