第2話 新しい仕事
尚子は新しい職場であるひだまりヘルパーのオフィスに到着した。心臓が鼓動を速めるのを感じながら、彼女は深呼吸をして、建物の中に足を踏み入れた。その一歩は、新しい世界への扉を開けるような感覚があった。
「おはようございます!」
オフィスは小さく、温かみのある雰囲気に満ちていた。壁には「家族のように支え合い、心を繋ぐ」と書かれたポスターが掲げられていた。そのポスターは、どこかキッチュでありながらも、不思議と心に響くものがあった。
「村田さんようこそ!緊張してる? 大丈夫、ここは常勤4人と登録さんでやってるこじんまりとフレンドリーでやってるから。」
彼女の最初の出会いは、ひだまりヘルパーのチームリーダーである佐藤美紀だった。佐藤は穏やかな笑顔で尚子を迎え、彼女の不安を和らげるように丁寧にオフィスの環境や業務の流れを説明してくれた。美紀は、尚子が以前経験した困難や子育ての経験を尊重し、それが人として、ヘルパーとしての彼女の強みになるだろうと励ましてくれた。その言葉には、ささやかだが確かな光があった。
「村田と申します。皆さんどうぞよろしくお願いします!」
その瞬間、尚子は自分が新しい物語の中に足を踏み入れたことを感じた。それは予測不可能で、時に困難を伴うかもしれないが、きっと意味のある旅になるだろう。
「こんにちは、高橋です。私たちの仕事は大変だけど、とてもやりがいがあるわよ!同じ年みたいだから、何かあったらいつでも聞いてくださいね。」
ヘルパー経験20年のベテラン、高橋が優しい眼差しで尚子を見つめた。同い年には見えない。その顔には時間が刻んだ微かな皺があり、それは彼女の経験の深さを物語っていた。高橋の言葉には不思議な重みがあり、尚子はこの人から多くを学べるだろうと感じた。
次に、山田が尚子に近づいてきた。彼女の動きには、何か水のような滑らかさがあった。
「山田です。技術的なことなら何でも聞いてください!使うシステムやアプリがいくつかあるけど、一緒に慣れていきましょう!」
山田の誠実なサポートの言葉は、尚子に安心感を与えた。この場所で、彼女は一人ではないのだ。
「えーっと、春田って言う今日休んでる子がもう1人常勤で居るからよろしくね!また、紹介するわ。」
今まで丁寧に話していた佐藤が、急に春田には「休んでる子」という少し下の様に見る心情が表現されていて、尚子は理由が気になった。その言葉の裏には、何か複雑な関係性が潜んでいるようだった。しかし、彼女はそれを深く追求せず、ただ頷いた。
「は、はい!よろしくお願いします!」
佐藤は尚子を小会議室に案内し、一人のケースファイルを手渡した。それは田中香子という名前の利用者に関するものだった。
「これから訪問する独居で認知症がある田中香子さんよ。」
佐藤は、田中香子の背景、健康状態、好み、日常生活のルーティン、そして認知症の特徴について詳しく説明した。その言葉は、尚子の脳裏に香子という人物の輪郭を少しずつ描き始めた。
「田中香子さんは、最近認知症の症状が進行してきていますが、彼女はまだ自宅で自立した生活を望んでいます。ケアプラン上の私たちの主な任務は、香子さんが安全に、そして可能な限り自立して自宅で過ごせるように支援することです。」
「認知症の人が自立って?」と尚子は心の中でつぶやいた。それは矛盾するように思えた。しかし、次々と説明される日常生活での注意点や薬の管理、食事の準備、そして家の安全を確保するための注意点に追われ、その疑問は消えていった。彼女は必死にメモを取り続けた。
「ケアプランって見てないんですが?」
「また帰ってきてから、、」
佐藤は質問を先送りにし、認知症患者とのコミュニケーション方法についてのアドバイスを続けた。それは川の流れのように、途切れることなく続いていった。
「香子さんは時々、過去の出来事と現在を混同することがあります。そんな時は、焦らず、優しく、そして根気よく対応してください。彼女の話をじっくり聞き、現実に引き戻すよりも、その話に寄り添う形で接するのが良いでしょう。」
尚子は黙って聞いていたが、その言葉の奥には真実があるように感じた。現実と非現実の境界線が曖昧になる状態。それは誰にでも起こりうることかもしれない。
佐藤は香子の家族構成や、彼女の好きな話題、音楽、テレビ番組についても触れ、これらの情報が香子さんとの関係構築に役立つことを強調した。彼女の言葉には、利用者を一人の人間として尊重する姿勢が表れていた。
最後に佐藤が少し声のトーンを上げて言った。
「私たちの仕事は単に身体的なケアだけではありません。利用者の心にも寄り添うことが大切です。この仕事の最も重要な部分は、利用者に対する思いやりと自立を尊重する事です。無闇にできる事を取ってはダメです!そして、、ケアプランに書いてない事が必要と思えたら、すぐに報告して下さいね!」
「は、はい!」
尚子は理解したふりをして返事をした。実際は、彼女の頭は収まりきらない情報で溢れかえり、「自立」という消化しきれない言葉が頭にチラつき、視界を曇らせていた。それはまるで、霧の中を歩いているような感覚だった。
「では、行きましょう!」
2人は足早に、田中香子宅に向かった。道を歩きながら、尚子は自分がこれから出会う田中香子という人物に思いを馳せた。彼女はどんな人生を歩んできたのだろう。どんな喜びを感じ、どんな悲しみを抱えてきたのだろう。そして今、記憶という名の糸が少しずつほどけていく中で、彼女は何を思うのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、不思議と自分自身の中にある何かが少しずつ変わっていくのを感じた。それは恐れや不安ではなく、むしろ好奇心に近いものだった。尚子は新しい世界への旅が始まったことを、静かに実感していた。