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第28話 玉虫色の水面

 会議室の蛍光灯は、疲れた光を等しく注いでいた。

 武田は眼鏡をテーブルに置いて、こめかみを押さえた。


「ただ、問題はそう単純ではない」


 その一言が、室内の空気を微妙に変えた。

 誰もが感じていたことを、武田だけが口にした。怒りという炎は、現実という湿った薪の前でいつも少しずつ萎んでいく。


「認知症の周辺症状として、性的な脱抑制は報告されている。本人に悪意があるかどうか、それを立証することは…」

「悪意があるかどうかなんて関係ないでしょう!」

 佐藤が遮った。声は穏やかだったが、その奥に鋼のようなものが光っていた。

「尚子さんが傷ついた事実は、動かない」

 武田は頷いた。しかしその頷きの中に、ゆりは何か重いものが沈んでいるのを見た。川底に堆積した泥のように、解決されないまま長い時間をかけて積み重なってきたものが。


 春田が、ずっと黙っていた。

 会議室の隅で、腕を組んで。彼女の沈黙は単なる無言ではなく、何かをじっと押し込んでいる沈黙に見えた。

「春田さんは?」ゆりは聞いた。

 春田は少し間を置いてから言った。


「私は…よく分からない。昔からよくある事じゃない…今更何を?」


 それだけだった。それ以上でも以下でもなかった。春田なりの、長年この業界で身につけた処世術と諦念の厚みを同時に感じた。傷を傷として名指しすることを覚える前に、傷に慣れることを覚えてしまった人間の、静かな悲しさを。


 議論は続いた。

 サービスの継続か、中断か。

 認知症の進行度、家族への説明責任、代替サービスの確保、空白期間の問題。言葉は実務的に積み重なっていったが、尚子にはそのすべてが遠い水の音のように聞こえた。

 自分の身に起きたことが、今や会議の議題に変換され、検討事項の一つになっている。それは必要なことだとわかっていたが、胸のどこかが、静かに冷えていった。



 事業所の方針として、山田家へのサービスを一旦停止し、ハラスメントの事実を記録として残した上で、武田ケアマネジャーを通じて長男・孝雄に事情を説明することが決まった。

 もし山田風太郎が今後もサービスを希望するなら、誓約書への署名を条件とする。違反した場合はサービスを打ち切る。


 佐藤が「これ以上の妥協はしない」とキッパリ言った時、尚子は小さく頷いた。

 守られたと思った。

 しかし同時に、何かに目隠しをした様にも思えた。それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。


****


 翌週、武田が孝雄と面談した。

 孝雄は五十代の実直そうな男で、最初は戸惑いの色を隠さなかった。


「父が…そんなことを?」

 武田が詳細を説明すると、孝雄の表情は少しずつ変わっていった。否定から困惑へ、困惑から羞恥へ。父親のしたことへの謝罪の言葉は、しかしどこか遠くから届くように聞こえた。家族の恥を処理しなければならない人間の、無機質な実務的な謝罪。

「父は認知症で…本人はわかっていないんです。本当に申し訳ない」

「認知症の症状であっても、被害を受けた職員の苦痛は同じです」武田は静かに、しかしはっきりと言った。そして、続けた。

「一度、父にそのまま話をしてみます…」

 その後、孝雄はしばらく黙っていた。窓の外で、一枚の枯れ葉が音もなく落ちた。


 数日後、孝雄から連絡が入った。

「父に話しました。父は、ハラスメントをした事を覚えていませんでした。ヘルパーさんを変えていただけますか?それならサービスを続けていただけますか?」

 武田から連絡を受けた佐藤は、しばらく受話器を持ったまま動かなかった。

 ひだまりヘルパー事業所は誓約書を求め、再発した場合の契約解除を求めた。しかし息子である孝雄が持ち出したのは、担当者の変更という、別の解決策だった。

 担当者の変更。それは事業所の要求ではなかった。


 現実は、複数の糸で編まれた網のように複雑だった。山田風太郎は七十五歳で、ひとりだった。妻を失い、空虚な日々の中で、かろうじてサービスによって生命の輪郭を保っていた。サービスが全面的に打ち切られれば、その糸がほどけていく。


 佐藤はゆりに話した。ゆりは尚子に話した。

「尚ちゃん、どう思う?あなたの意見を聞かせて」

 尚子は窓の外を見た。師走の空は相変わらず曇っていて、光は薄く、遠く、冷たかった。

「…誰かが山田さんのところに行って、生活が維持できるなら、それで…いいと思う」

 尚子の声は静かだった。怒りでもなく、諦めでもなく、ただ疲れた、川面のように平らな声だった。

「本当に?」

「山田さんが認知症で、自分でも何をしているかわかってないかもしれないって思うと…仕方ないんだよね」

「結局、玉虫色だね」ゆりに向かって、少し微苦笑を浮かべた。

 ゆりには何も言えなかった。


 その後、山田風太郎の担当は別のヘルパーに変わった。中年の男性ヘルパーが週三回訪問することになった。風太郎が最初に何と言ったかは、ゆりたちには伝わってこなかった。

 記録には、「担当者変更。本人同意」と簡潔に記されるだけだった。

 ハラスメントという言葉は、書類の上には残った。しかし言葉は書かれただけで、誰かを裁くことも、何かを根本から変えることもなく、ファイルの中で静かに眠っていった。

 

 山田風太郎が、自分のしたことをどの程度理解しているのか、今でも誰にもわからない。

 認知症の霧は、加害者の記憶も被害者の怒りも等しく包んで、すべてを曖昧なものへと変えていく。

 玉虫色の光は、見る角度によって緑にも紫にも見える。どこから見るかによって、その色は変わる。しかし玉虫が何色であろうと、玉虫は玉虫だ。


 尚子の経験は、尚子の中で、ゆっくりと別の形に変わりながら、沈んでいった。川の底で、長い時間をかけて、石が丸くなるように。

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