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第26話 遺された者への準備

 9月中旬の午後、台風が近づいているのか、まるで嵐の前の静けさのように、空気そのものが何かを待ち受けているかのようだった。

 

 午後2時半、尚子が佐藤と一緒に、毎週定期の生活援助で中村康夫の訪問に来ていた。

 居間には妙な緊張感が漂っている。

 中村康夫は朝から落ち着かない様子で、何度も時計を見ては、窓の外を気にしている。


「佐藤さん、今日は息子の健太が来るんだ」中村がお茶を出しながら言った。

「それと、もう一人…」

 佐藤の表情が一瞬こわばった。

「もう一人?」尚子が尋ねる。

「瑞穂なんだ…私の娘だ」中村はハッキリと答えた。


 居間に流れる時間が、突然粘度を増したような重い感覚。

 皆が黙ってその言葉の重みを受け止めていたが、何がどうなるか、誰も想像できないでいた。

「私たち、居て良いんですか?」尚子が尋ねる。

「ああ、佐藤さんも居るからちょうど良いよ。」

 佐藤が息を吐きながら頷く。

「村田さんは、今日の生活援助、掃除から進めていって、時間が来たら次の訪問頼むわね」

「…はい」


 午後三時ちょうどに、インターホンが鳴った。

 最初に現れたのは中村健太だった。

 彼はいつものように明るい笑顔で入ってきたが、居間の空気を感じ取ったのか、その笑顔がわずかに曇る。

「お疲れさまです」健太は尚子と佐藤に挨拶をした後、父親を見た。

「父さん、何かあったんですか?」


 中村康夫が答える前に、再びインターホンが鳴った。今度は篠原瑞穂だ。

 彼女が居間に入ってきた瞬間、健太さんの表情が戸惑いに変わった。

「こちらは?」健太さんの声には明らかな警戒心がある。

 中村康夫は深く息を吸い、それからゆっくりと吐いた。まるで長い間抱えていた重荷を、ついに降ろす決心をしたかのように。


「健太、瑞穂、座ってくれ」

 三人が向かい合って座った。佐藤さんは少し離れた場所に、尚子は台所で掃除を始めていたが、聞き耳を立てていた。

 緊張感が、部屋全体を包み込んでいた。


「初めまして、篠原瑞穂と申します。」瑞穂が健太に深くお辞儀をした。

「はあ、私は父の一人息子、中村健太と申します。それで、何か?」

 暫く沈黙が続いた。

 が、康夫が震える声で話し始めた。

「健太、私から話があるんだ…」


「実は、この子瑞穂は私の娘なんだ。お前の腹違いの妹だ」


 健太は一瞬言葉を失った。それから立ち上がり、瑞穂を見下ろした。

「何を言ってるんですか、父さん!」健太さんの声は低く、怒りを抑えているのがわかった。

「急に!この人は一体何者なんですか?なんの目的なんですか?」


「私の名前は篠原瑞穂です。が、あなたのお父様の娘です」

「証拠は?あるのか?」健太が詰め寄る。

「戸籍は?DNA鑑定は?」

 瑞穂さんは静かにバッグから書類を取り出した。

「戸籍謄本です。認知届も出ています」


 健太が書類を受け取る手が震えていた。

 康夫も眼鏡をかけ、健太の横に並んで食い入るように書類を見た。

「戸籍謄本。下の方に、健太。そして、母さんの名前。これしか書いてないじゃないか!」 

「上の方、縦書きの一行を見て下さい」瑞穂が差し示した。


「あっ!!」思わず同時に声を上げた。

『中村康夫同籍篠原瑞穂を認知』

 そこに「篠原瑞穂」の名前があった。


 健太の顔は青ざめ、まるで自分の記憶の土台が崩れ落ちるのを感じているかのようだった。

 「そ、そんな訳ない!そんな急に現れたって…父さんは、認知症もあるし、これだって偽造かもしれない。こんな紙切れ!」明らかに狼狽えた声で健太が否定した。


「健太さん、ごめんなさい。私は知っていました」佐藤が口を開いた。

 全員の視線が佐藤さんに向けられた。

「三十年以上も前、お父様は私に瑞穂さんのことを話していました。篠原梨絵さんとの間に生まれたお子さんの事を」

 健太が佐藤を見た。「あなたは一体?」

「私は当時、篠原梨絵さんと同じ職場で働いていました。中村さんがお客様として来られていた頃の話です。そして時を経て、偶然にヘルパーとして、お父様を訪問する事になったのです。お父様は、私の事を覚えてらっしゃいました」佐藤さんは静かに説明した。


「これは、いつから?」健太は父親を見つめた。「父さんは…いつから知っていたんですか?」

「…ずっとだ。ずっと知ってた」中村さんの声はかすれていた。「瑞穂が生まれた時から隠してた」

「か、母さんは知ってたの?」

 部屋に重い沈黙が降りた。時計の音だけが、その静寂を刻んでいた。

「分からない。隠し通そうと思ってたから、健太の為にも…。知ってて、知らんふりをしてくれてたのかもしれない」

「父さん、認知症じゃないのか?」

「ああ、認知症だから周りの人達の言う事をよく聞く様に、先生から言われてる。良く忘れる。けど…昔の事は、よく覚えてるんだよ」

「健太さん、認知症の進行は短期記憶からなの。長期記憶はある程度進行するまで良好に保存されているものなのよ」佐藤が解説する。


 真実の重さが、ゆっくりと健太に浸透していった。彼は椅子に崩れるように座り込んだ。

「どうして、どうして今になって現れたんですか?金が目的ですか?父の財産が欲しいんですか?」健太の声が震えていた。


 その言葉が空気を切り裂いた。

「そうではありません。私はただ—」瑞穂の表情が初めて動いた。

「だったら何だ!」健太が声を荒げた。

「三十年以上も放っておいて、今更何をしに来たんだ!」


 中村康夫が突然立ち上がった。

 そして、まるで堰を切ったように泣き始めた。

「やめてくれ!」中村さんは両手で顔を覆った。「頼むから、子供同士で言い争わんでくれ!わしが悪かった!すまん!…だから、仲良くしてくれ」

「私が悪かった」中村さんは涙声で続けた。

「母さんも、瑞穂の母さんも、もうこの世には居ない。みんなに嘘をついて、隠し続けて。でも、もう時間がないんだ。もうわしも長くない」


 認知症の進行、体調不良。中村康夫は自分に残された時間を感じ取り、遺された者の為に逝く準備をしているのだ。


「お父さん!」瑞穂が初めて感情を露わにした。「私は財産なんていりません!」

 健太が顔を上げた。

「私はただ、お父さんとして関わらせてほしいんです」瑞穂は続けた。

「母が亡くなってから、ずっと一人でした。でも、お父さんがまだ生きていらっしゃることを知って、お父さんが認知症になってると知って、私を覚えている間に、どうしても会いたくなったんです!」


 瑞穂の目には涙が光っていた。

「財産分与は一切いりません。ただ、残された時間を、父親として接してもらえれば、それで十分です!」


「分かりました」

 健太さんは長い間黙っていたが、瑞穂の言動が健太を動かした。

「でも、法的な相続権はあなたにもあります。それを否定するつもりはありません」

 瑞穂さんは首を振った。「本当にいらないんです」

「いえ」健太さんは立ち上がった。「それは違います。あなたも父の娘なら、正当な権利があります。私が勝手に決めることではありません」


 中村康夫は二人の子供を見つめていた。その目には、深い安堵と、そして長年抱えてきた罪悪感からの解放があった。

「ありがとう!二人とも、ありがとう…」

 康夫は涙を流しながら、繰り返し呟いた。


****


 帰り道、佐藤と尚子は無言で歩いていた。

 夕暮れの街並みは、いつもと同じようでいて、どこか違って見えた。真実が明かされた後の世界は、微妙に色合いを変えるものなのかもしれない。


「佐藤さん、今日は良かった…ですよね?」

「そうね」佐藤さんは遠くを見つめながら答えた。


「人生悔いのない様にしないとね。」少し考えながら続ける。

「私たちもいつ逝くか分からない。中村さんを見習って、残された人の為に、残された人が困らない様に、エンディングノート。亡くなる準備をしとくべきね。」


「エンディングノート?」

「そう、エンディングノートは、遺された家族がスムーズに死去後の手続きを進められるように、自分の財産情報、医療・介護の希望、葬儀やお墓に関する事とを記しとくものなの。有料で配布されていたり、社協やネットで無料で手に入るわよ」


「遺された人への準備か…」

 慎二の事を思い出して、急に歩調が早くなった。

 街を照らす太陽が、夕日に変わっていた。

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