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第24話 雨の日の再会

 夜になると、空は微かな紫色を帯びていた。遠くから聞こえてくる車のエンジン音が、都会の日常を運んでくる。

 佐藤美紀は事務所の窓からその光景を眺めながら、今日の最後の書類に目を通していた。もう誰もいない事務所は、静かな呼吸をしているようだ。


「おう、まだいたの?」

 振り返ると、武田孝介が立っていた。灰色のジャケットは朝と同じだが、少し疲れた表情をしている。

「ええ、新規の利用者さんの書類を確認してたの」美紀は微笑みながら答えた。

「中村康夫さんのことか?」彼女は小さく頷く。

 書類を見る目が、微かに険しいことに武田は気づいた。

「妄想なら未だ軽度だし、認知症も穏やか。問題行動はないよ。定年までMTTに努めてて企業年金も沢山あるし、優しい一人息子が定期的に見に来てくれてるし、ケアマネジャーとしては楽勝!ヘルパーさん達も安心だろ?」

「一人息子なの?」

「え?、あ…まあ」

「そう、分かったわ」何を分かったんだろう?武田は首を傾げた。



 翌朝、尚子は事務所に早めに到着した。

「おはよう、尚ちゃん」高橋ゆりが笑顔で声をかけてきた。

「おはよう、ゆりちゃん。今日も早いね」

「ええ、朝の時間が好きなの。誰もいない事務所は、何か別の世界みたいじゃない?」

 尚子はその言葉に頷いた。確かに朝の事務所には、日中とは違う空気が流れている。時間がゆっくりと流れ、何かが始まるのを待っているような。


 ドアが開き、佐藤美紀が入ってきた。

 いつもの彼女なら、明るい声で挨拶をするはずだったが、今日は少し暗い影を纏っているように見えた。

「おはようございます!」尚子が声をかける。

「ああ、おはよう、村田さん、高橋さん」佐藤の声は、空気中に溶け込むように小さかった。

「佐藤さん、どうかしたの?」高橋が心配そうに尋ねた。


 佐藤は一瞬、言葉を探すように口を開いて閉じた…そして、意を決したように話し始めた。

「今日から新しい利用者さんが入るの。中村康夫さん。78歳で、認知症の初期段階。奥さんを3年前に亡くされて、それからずっと一人暮らし。最近、物忘れがひどくなって...」

 彼女の声にはいつもの明るさがない。

「それで今回は、村田さんと高橋さんで初回訪問をお願いしたいの…」

「ええ?…いつも新規は佐藤さんと同行訪問しているので…何かあった時に管理者の方に知っておいて貰わないと困ります。それに、契約もあるし…」


「そうね…やっぱり、仕方ないわね」

 尚子は佐藤の表情を読み取ろうとしたが、彼女は視線を合わせず分からなかった。



 うっすらと灰色に濁った雨が、窓を伝い落ちる木曜日の午後。大きな松の木が連なる庭が、中村康夫の家だ。

 伝統的な日本家屋の格子の引き戸前で、佐藤は深呼吸をした。

「大丈夫ですか?」尚子が小声で尋ねた。

 百戦錬磨の佐藤が珍しく緊張している様子だ。一瞬だけ目を閉じ、また開く。その間に、何かが彼女の中で切り替わったのか、笑顔でインターホンを押す。

 しばらくして中からドアが開いた。

「こんにちは、中村さん。ひだまりヘルパーの佐藤です」

 ドアの向こうに立っていたのは、背の高い、どこか風格のある男性だ。

 白髪交じりの髪は丁寧に整えられ、着ているシャツもきちんとアイロンがかけられている。その目には少し不安な様子もある。

「ああ、ヘルパーさんですか。どうぞ」

 彼は二人を家の中に招き入れた。


 部屋の中は整然としていたが、いくつかの違和感があった。

 冷蔵庫のドアが半開きになっているし、テーブルの上に未開封の郵便物が山積みになっていたり。生活の隙間から、少しずつ認知症の影が見え隠れしている。壁には家族写真が飾られ、中年の男性と中村が並んで微笑む写真が目立つ場所に掛けられていた。

「息子さんですか?」美紀は写真を指さして尋ねる。

「ええ、健太です。良い子なんですよ」中村は写真を見つめながら答えた。

「毎週日曜日に来てくれます。忙しいのに...」

 

 美紀は彼の生活状況を確認していく。薬の管理、食事の状況、入浴の頻度。一人暮らしの高齢者なら誰でも直面する日常の小さな困難が、認知症によって増幅されていた。


 話しているうちに、中村の目が突然輝いた。彼は美紀をじっと見つめ、眉を寄せた。

「あの...どこかでお会いしましたか?」

 美紀の心臓が一瞬止まったように感じた。

「いいえ、初めてお目にかかります」彼女は軽く微笑みながら答えた。

 中村は首を傾げた。「そうですか...どこかで...」彼は言葉を探すように空間を見つめたが、すぐに諦めたようだ。「年寄りの勘違いでしょう…ごめんなさい」

「こちらが村田尚子さんです。今日から一緒にお世話させていただきます」佐藤が尚子を紹介した。

 中村は尚子に軽く頭を下げた後、又、佐藤を見つめた。その視線には、何か探るような鋭さがあった。


「あなた...どこかで...」

 佐藤の表情が一瞬こわばった。しかし、すぐに柔らかな微笑みを取り戻す。

「はい、ひだまりヘルパーの佐藤です。どうぞよろしくお願いします」

「いや、それじゃない。前に...」

 中村の言葉は宙に浮いたまま消えた。彼は自分が何を言おうとしていたのか、忘れてしまったようだ。

「そうだ、お茶を入れなきゃ!」


 彼はそう言って台所へ向かった。佐藤と尚子が後に続くと、彼はどのように湯を沸かすのか分からなくなっていた。

「お手伝いしましょうか?」尚子が優しく声をかけた。

「ああ、そうだな。すまないが…」

 中村は少し恥ずかしそうに頭を下げた。尚子がケトルに水を入れている間、佐藤は中村に話しかける。

「最近はどうお過ごしですか?」

「まあね、一人だと時間が余るよ。テレビを見たり、時々息子が来たりするけど...」


 中村は窓の外を見ながら答えた。その横顔には、何か懐かしいものを見つめるような表情があった。

「昔は忙しかったんだ。会社を経営していてね。毎晩のように取引先との付き合いで飲みに行ってた」

 その言葉に、佐藤の手が一瞬止まる。

「そう、家族サービスは疎かになったかもしれないけど、仕事一筋だった」中村は続けた。「バブルの頃は特にね。あの頃は...」


 彼は突然、佐藤をじっと見つめた。

「あなた...ミキちゃんじゃないか?」


 部屋の空気が凍りついた。


「ミキちゃん...そう、確かにミキちゃんだ。『月の真珠』で働いていたミキちゃんだよ!間違いない!」

 佐藤の顔から血の気が引いた。隣で紅茶を入れていた尚子が、驚いて振り返った。


「中村さん、わたしはひだまりヘルパーの佐藤美紀です」佐藤は冷静さを保とうと努めた。

「そうだった、今はそうなんだね」中村はしみじみと言った。「時間って不思議なものだ。あの頃のミキちゃんが、今こうして...」彼の言葉は、また宙に消えた。何かを言いかけて、途中で忘れてしまったようだ。


 その後の訪問は、表面上は普通に進んだ。佐藤と尚子は中村の生活環境を確認し、必要な支援について話し合った。しかし、尚子には佐藤の中に緊張が生まれているのが感じられた。


「佐藤さん、大丈夫ですか?」

 帰り道、尚子は思い切って尋ねた。佐藤は足を止め、深くため息を吐いた。

「私、無理だわ。あなたと村田さんか春田さんに担当変更するね。武田ケアマネジャーにも、ちゃんと話しする…」


 事務所に戻ると、佐藤は事情を説明し始めた。

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