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第20話 尾行、そして邂逅

「おはよう、尚ちゃん!」

 出勤早々、高橋ゆりがコーヒーを入れながら声をかけた。


「おはよう、ゆりちゃん!」尚子は荷物を置きながら挨拶を返した。

 事務所にはまだ二人しかいない。未だ7時半、こんな早め時間に出勤するのは、朝の訪問介護の準備の為だ。


「今日は誰の訪問?」ゆりが尋ねた。

「松浦さんの所」尚子は予定表を確認しながら答える。8時00分からの身体介護とデイの送り出し、朝は分刻みだ。

「あ、松浦さんか。大変だよね、一人暮らしの男性って」ゆりはコーヒーを2人分注ぎながら言った。

「でも、松浦さんはすごく紳士的よ。特に問題はないわ」

「そう、それは良かった」ゆりは少し声を落として続けた。「…春田が担当してた時は、いろいろあったらしいけど」


「え?」尚子は顔を上げた。

「噂だけどね…」ゆりはさらに声を小さくした。「春田って、独身なのよ。そして...」彼女は一度周りを見回してから続けた。「けっこう高齢者の男性に取り入るのが上手いみたい」


 尚子は驚いて目を丸くした。「独身?…どういうこと?」


「あくまで噂だからね」ゆりは念を押した。

「春田がたまに高齢者男性と付き合ってるって話を聞いたことがあるの。特に裕福な人とか...そう、松浦さんよ!資産家だからね、付き合ってたって噂があったの。でも、嫌われちゃったのか、担当を突然、尚子に変えちゃったわよね。」


 尚子は黙ってコーヒーを飲んだ。

 高齢者の男性と親しくしている春田の姿が脳裏に浮かび、そして同時に、春田が尚子に投げかけた言葉も蘇ってきた。

『あんたみたいに若くてきれいな子が来ると、利用者は飛びつくのよ。特に男性は...』

 春田の言葉は、ただの揶揄ではなく、嫉妬だったのかもしれない。


 尚子は先日見た光景を思い出した。

「そう言えば...」

「あ、でも本当かどうか分からないからね」ゆりは慌てて言った。

「ただ、最近の春田の様子が変だから、ちょっと…」

「変?」

「うん、何だか段々派手になってない?以前は落ち着いてたのに」ゆりは首を傾げた。


****


 1週間後の土曜日、尚子は珍しく休みをもらっていた。通常は土曜も訪問があるのだが、担当利用者が病院に入院してしまったため、予定が空いた。

 慎二は部活があるというので、尚子は一人でショッピングモールに出かけた。新しいシャツが必要だったのだ。

 

 買い物を終え、フードコートで軽く昼食を取ろうとした時、

 またしても春田の姿が!

 今度は先日とは別の高齢男性と一緒だ。

 男性は七十代前半くらいで、上品な身なりをしている。春田は男性の腕に手を回し、彼が何か言うたびに微笑んでいた。


 まさか...

 二人は駐車場に向かって歩いていく。

 尚子は昼食を取り止め、思わず後を追った。

 駐車場では、男性がドアを開け、春田が助手席に乗り込むのが見えた。車は先日のものとは違う、こぎれいなファミリーカーだった。

 男性が運転席に回り込もうとしたとき、彼らの視線が交差した。


 春田と尚子の目が合った。


 春田の顔から血の気が引いていくのが見えた。

 彼女は一瞬硬直し、それから急いで男性に何か言った。男性は不思議そうに尚子の方を見た後、車に乗り込んだ。

 そして、春田は車に乗る前に、尚子の方に小走りで歩いてきた。


「あんた!何してるのよ!?」春田の声は低く、怒りに震えていた。

「買い物です」尚子は静かに答えた。「偶然です」

「偶然?」春田は信じられないという表情で言った。「私を尾行してるんじゃないの?」

「そんなことは...」

「あんた、私の噂を広めたりしたら、ただじゃおかないわよ!」尚子の返答を遮り「もっとあんたの噂を広めてやる!!」


 尚子は深く息を吸い、静かに言った。

「春田さん、私が誰とでも寝るという噂、私が金に困ってるという噂は…あなた自身の事だったんですね」

 春田の顔が一瞬ゆがんだ。「何...何を言ってるの?」

「裕福な高齢男性に何とか取り入って、金を貢がせて稼ぐって事。それが春田さんが言う『必死で生きてる』って事なんですね?」


 …バシィーン!

 春田が尚子の頬を叩いた。


 尚子は一瞬俯いたが、春田を睨み返した。

「松浦さんを私に取られた嫉妬ですか?」

 春田は言葉に詰まった。その表情には、怒りに恐怖が入り混じった。 


「勘違いされている様ですが…」尚子は静かに続けた。

「私は、春田さんの事、事務所の皆に言い触らすとか、松浦さんを取るとか…そんな下世話な事には、全く興味ありません。」

「え?」春田は混乱したように尚子を見返した。

 

「ずっと、謝りたい事、気になっていた事がありました…」

「私が訪問介護の仕事を始めて間もないのに、利用者さんから指名されて、あなたの担当が減ってしまった事...私は意図的にそうしたわけではないけれど、結果としてそうなってしまった。申し訳ありませんでした」尚子は真摯に言った。


 春田は呆気にとられたように立ち尽くしていた。

「それに…」尚子は続けた。「仕事の能力では、私はまだまだあなたに敵いません。あなたの方が経験豊富で、テキパキと仕事をこなせる。私はまだ学ぶことばかりです」

「なんで...」春田の声は震えていた。「なんでそんなことを言うの?」


「ただ、人を傷つけて、人を踏み台にするやり方は、金輪際止めてください!!」


 春田はしばらく黙っていた。そして突然、笑い出した。それは皮肉な笑いだった。

「あんたは馬鹿よ!」彼女はようやく言った。

「もっと上手く生きられるのに…」

「私は馬鹿かもしれません」尚子は肩をすくめた。「でも、私は私のやり方でしか生きられないんです」


 春田は尚子をじっと見つめた。彼女の目は、怒りから呆れたような色に変わっていた。

「あんたも、いつか分かるわよ」春田はため息をついた。「世の中、まともに生きてたら報われるなんて、そんな甘いもんじゃない。特に私たちみたいな立場の女には...バカ正直だけでは生き残っていけないのよ!」


「それぞれの生き方があります」尚子は静かに言った。


 春田は黙って首を振り、そして男性の待つ車に向かって歩き始めた。数歩行ったところで振り返り、尚子を見た。

「言っておくけど、私は悪いことはしてないわ!」彼女は少し誇らしげに言った。

「ただ、人生を少し豊かにしているだけ!お付き合いしてる男性にも喜んで貰ってね!」

 春田は最後に尚子を一瞥し、車に乗り込んだ。


 車が駐車場から出ていくのを、尚子はじっと見つめていた。


 尚子はショッピングバッグを持ち直し、帰路についた。帰り道、空は薄い雲で覆われ始めていた。少し遠くで、誰かが笑う声が聞こえる。

 それぞれの人生の小さな交差点で、人は出会い、そして離れていく。春田との対立は、多分これからも完全には解消しないだろう。それでも、今日の対話で何かが少し変わった気がする。


「あ、昼ごはん忘れてた!」


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