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第1話 プロローグ

 空には雲一つなく、朝の清々しさが世界を包み込んでいた。尚子は息子の部屋に忍び込むように足を踏み入れた。カーテン越しに差し込む朝日が時間の流れを静かに告げている。部屋の中は朝日の光に満たされるまでの過渡期にあり、影と光が微妙な境界を作り出していた。


「慎二、起きなさいよ。もう朝だよ」

 彼女の声は夢と現実の境界線を揺るがす小石のように、優しく慎二の意識の水面に投げかけられた。慎二は布団の中で身体を少し動かし、ゆっくりと目を開けた。その瞬間、彼の意識は夢から現実へと波紋のように広がっていった。


「んー、お母さん、今日は何曜日?」

 慎二の声は、まだ夢の世界の残響を含んでいた。尚子はそれを聞きながら、どこか懐かしさを覚えた。毎朝の同じ問いかけ。でも、今日のそれはどこか特別な響きを持っていた。

「水曜日よ。でも今日は特別な日。お母さん、今日から新しい仕事なんだ」

 尚子は微笑みながら答えた。慎二はその言葉に、小さな驚きを目に宿した。眠りの霧が一気に晴れたかのように。


「そうだった、お母さん、新しい仕事だね。がんばってね!」

 彼の声は、朝の静けさの中で不思議なほど明瞭に響いた。尚子は息子の言葉を聞きながら、自分がこれまで歩んできた道のりを思い返していた。シングルマザーとしての日々、離婚という人生の分岐点、そして何より、この子との間に築いてきた特別な絆。それらすべてが交差し、彼女を今日という日に導いたのだ。


「新しいページが始まった」

 彼女はつぶやいた。朝の光が彼女の顔を照らし、アクアマリンのブローチに宿った。そのブローチは、彼女が常に身につけるお守りのようなものだった。誰かからの贈り物なのか、自分で選んだものなのか。その由来は誰も知らない。ただ、それが彼女にとって特別な意味を持つことだけは確かだった。

「え?」


 慎二の澄んだ瞳にも同じ光が宿った。母と子の間に流れる見えない糸が、同じ光を伝えたかのように。

「ううん、独り言だよ。ありがとう!慎二!」

 尚子は慎二の髪を優しく撫でた。彼の髪は、まだ子供らしい柔らかさを残しながらも、少しずつ大人の質感に変わりつつあった。時間は確実に流れているのだと、尚子は改めて実感した。

「でも、お母さんががんばるのはいつものこと!慎二も学校でがんばってくれる?」

「うん!」

 慎二は元気よく答え、まるで長い冬眠から目覚めた動物のように、一気に布団から飛び出した。彼はお母さんの新しいスタートを全力で支えたいと思っていた。それが自分にできる最大の応援だと信じて。


 彼は手を洗ってテーブルにつき、魚の身を器用に解しながら尋ねた。その仕草は、どこか大人びていて、尚子はふと時間の不思議な流れを感じた。

「お母さん、今日のお弁当は何?」

「今日はお母さん、出勤で忙しいから、お弁当はないの。学校の給食を楽しんでね」

 尚子はそう言いながら、どこか申し訳なさを感じていた。慎二は一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに雲が晴れるように表情を明るくした。

「大丈夫、給食も好きだから!」

 彼の言葉には、年齢以上の思いやりが含まれていた。その一言に、尚子は胸が熱くなるのを感じた。


「忘れ物ない様にね!行ってらっしゃい!」

 尚子は慎二を学校に送り出し、自分も新しい職場へと向かった。朝の空気は冷たく澄んでいて、肺の奥まで染み渡る感覚があった。


「神様、私たち親子っ、一番幸せかも、、ありがとう!」

 彼女の心に温かい気持ちが溢れた。それはまるで、誰かが彼女の心に優しく灯りをともしたかのようだった。


 出勤の道中、尚子はこれまでの人生を振り返った。離婚後の辛さ、シングルマザーとしての苦労。それらすべてが、今の彼女を形作っていた。不思議なことに、離婚後の方が物心両面で不安や心細さが増したはずなのに、慎二からの信頼と支えがあることで、幸せが以前より増して感じられていた。人生とは、時に予想外の方向に流れるものなのかもしれない。

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