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第12話 安心の要 1

 初夏の訪れを思わせる風が花々を揺らし、その音が耳に届いた日、尚子は副田慎二という名の男性を訪問することになった。その日の朝、尚子は佐藤からの引き継ぎを受けていた。


「このケアプランについては、『お風呂、トイレの掃除』がメインね。それと、やっぱり『話し相手』『見守り』。これが本人の安心にとっては一番大事かもしれないわ」と佐藤がレクチャー。

 尚子はメモを取りながら頷く。「副田さんは、どんな方なんですか?」

「一言で言うと...独りが好きだけど、たまに誰かと話したくなる、そんな方ね」

 佐藤の言葉には、長年の介護経験から得た洞察力が感じられた。


 ひだまりヘルパーの白い軽自動車に乗り込み、住所を確認する。副田慎二、72歳。脳梗塞の既往歴あり。高コレステロール。要支援2。これが尚子の持つ主要な情報だ。


 車窓から見える風景が徐々に変わっていく。低層住宅が建ち並ぶエリアから、次第に高層マンションが目立つ地域へと。不意に出てきた100坪くらい有りそうな一軒家。尚子は駐車場に車を止めて玄関へと向かった。


 玄関のチャイムを鳴らすと、しばらくして足音が近づいてきた。ゆっくりとした、しかし確かな足取りだった。

「はい」とやや低めの声がして、ドアが開いた。そこに立っていたのは、白髪交じりの髪を短く刈り上げた男性だった。副田慎二だ。彼は少し左に傾いた姿勢で立っていたが、その目は鋭く、尚子を観察しているようだった。


「ひだまりヘルパーの村田尚子です。今日から担当させていただきます」

 副田は一瞬、尚子の顔を見つめた後、小さく頷いた。

「ああ、佐藤さんから聞いてる。どうぞ」

 玄関を入ると、整然と片付いた室内が広がっていた。壁には古い額縁に入った写真がいくつか飾られている。一人で暮らす男性の部屋としては、驚くほど清潔だ。だが、細部を見ると、少しずつほこりが積もり始めている場所もある。誰かが定期的に掃除をしなければ、やがて埃の王国と化すのだろう。


「お茶でも飲みますか」副田は尚子を居間に案内しながら言った。その言葉には、義務的な響きと同時に、誰かと話したいという小さな願いが混ざっているように感じられた。

「ありがとうございます。でも、先にお掃除から始めさせていただきます」

 尚子はトイレと浴室の掃除から始めた。副田は離れた居間のソファに座り、新聞を広げていたが、時折、尚子の様子を窺うように視線を向けていた。


 掃除が終わると、尚子は副田のところへ行き、服薬状況を確認した。小さな薬ケースが週の日にち別に区切られており、ほぼ規則正しく空になっていた。


「副田さん、お薬はちゃんと飲めていますね」

「ああ、これだけは忘れないようにしてる。医者に言われたんだ。『一度でも飲み忘れると、また倒れるかもしれませんよ』ってね」

 副田の言葉には、過去の体験から来る恐怖と緊張が透けて見える。脳梗塞で倒れた時の記憶が、彼の日常に影を落としているのだろう。


「眩暈はどうですか?最近ありますか?」

「たまにね。特に朝起きた時に。でも、以前ほどじゃない」

 会話が進むにつれ、副田の表情がわずかに柔らかくなっていくのを感じた。話す相手がいることの安心感なのか、それとも単に尚子に慣れてきたのか。


「お子さんは、どちらに?」尚子が壁の写真を見ながら尋ねた。

「娘は九州、息子は北海道。どっちも遠くにいる。年に一度会えれば良い方さ」

 副田の声には寂しさよりも諦めの色が強かった。それは長い時間をかけて沈殿した感情のようだ。


「奥様とは...」尚子が言いかけると、副田は軽く手を振った。

「離婚して十五年になる。お互いのためだったよ」

その短い返答の中に、語られない多くの物語が埋もれているように思えた。尚子はそれ以上踏み込まなかった。


 最初の訪問は無事に終わった。副田は玄関まで尚子を見送り、「次はいつ来るんだ?」と聞いた。

「金曜日です。また同じ時間に」

「ああ、待ってるよ」

 その言葉には、形式的な別れの挨拶以上のものが含まれているように感じられた。


 週に二回の訪問が続き、徐々に副田との間に信頼関係が生まれていった。彼は元々無口な人間ではなかったようで、尚子に慣れるにつれて、過去の仕事の話や、趣味の囲碁の話などを少しずつするようになった。


 三週目の訪問の時だった。玄関前に見慣れない段ボール箱が置かれているのに気づいた。

「副田さん、何か荷物が届いていますよ」

「ああ?」副田は首を傾げた。「何も頼んでないけどな」

 箱には「フレッシュライフ健康食品」と書かれていた。尚子が副田に確認すると、彼は首を横に振った。


「心当たりはないな。返品しようと思ったんだが、どこに連絡していいか分からなくてね」

 尚子は箱を開けてみることを提案した。中には健康食品と思われるサプリメントのボトルが数本入っていた。添付の納品書には副田の名前と住所が印刷されており、3万円ほどの請求書が同封されていた。

「これ、注文した覚えはありませんか?」

「ないよ。電話で何か勧誘があったかもしれないが、断ったはずだ」


 副田の表情には困惑と、わずかな不安の色が見えた。尚子は請求書に書かれた電話番号に連絡することを提案した。副田は安堵の表情を見せた。

「お願いできるかい?こういうことは苦手でね」

 尚子が電話をかけると、向こうの応対は非常に素っ気なかった。「契約は成立しています。キャンセルには応じられません」と繰り返すばかりだった。


 次の週の訪問時には、今度は別の会社から同様の健康食品が届いていた。副田は明らかに困惑していた。

「また来た。電話したけど、『契約は成立している』の一点張りでね。何も分からないよ」

 尚子は副田のケアマネジャーが武田であることを思い出し、相談することにした。


「武田さん、副田さんのところに健康食品の送りつけ商法みたいなものが来ているんです」

 電話口の武田は、すぐに状況を理解したようだった。

「ああ、またか。そういう業者は、一度カモだと分かると、そのリストが業者間で回るんだ。消費者生活センターに連絡して、間に入ってもらおう」


 武田の動きは素早かった。消費者生活センターを通じて業者に連絡し、副田が高齢で判断能力に不安があることを理由に、契約のキャンセルを求めた。数日後、キャンセルが認められ、商品は返品されることになった。

「副田さん、良かったですね」と尚子が伝えると、副田は安堵の表情を浮かべた。

「ありがとう。でも、これでまた来るんじゃないかと...」


 その不安は的中した。数日後、今度は電話での勧誘が増えたのだ。武田は固定電話を迷惑電話防止機能付きのものに変更することを提案した。

「これで少しは減るはずだ。でも、完全になくなるわけじゃない。村田さん、時々電話の履歴を確認してあげてください」


 尚子はその後も、副田の訪問の度に電話履歴をチェックするようにした。時には不審な番号から着信があることもあったが、迷惑電話防止機能のおかげで、大幅に減っていた。


 ある日の訪問時、副田は珍しく笑顔で尚子を迎えた。

「村田さん、さっき息子から電話があったよ。来週うちに来るって」

「それは良かったですね」

「こういうことがあってね、少し心配になったらしい。でも、ヘルパーさんが来てくれてるって話したら、安心してたよ」


 副田の表情には、久しぶりに見る安堵と期待が混ざっていた。尚子は微笑んで返した。

「副田さん、何か困ったことや不安な事があったら、いつでも言ってくださいね。私たちは、副田さんの小さな変化に気づいている事が仕事です。そうすれば、早期にお医者さん、ケアマネジャーさんやご家族に伝えて問題を最小限にして、これからも安心して副田さんは一人暮らしを続けられますからね。それが私たちの仕事です」


 副田は小さく頷いた。「ありがとう!ヘルパーさんほど高齢者の一人暮らしにとって心強いものは無いよ!」

 その言葉は短いものだったが、そこには深い感謝の気持ちが込められていた。

 尚子はふと、この仕事の本質は単なる家事援助や身体介護ではなく、こうした一人一人の物語に寄り添い、人生の旅路を共に歩むことなのかもしれない、と思った。


 窓の外では、季節の変わり目を告げる風が街路樹の葉を揺らしていた。

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