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はるか、かなた  作者: 翡翠
猫は舞い降りた
8/22

不愉快な依頼人

「今、所長は不在にしております」

 今日、何度目かの台詞を奏多は言った。

「おいおい、いつまで待たせるんだよ。俺は依頼人なんだぜ」

 そう詰め寄る尾藤晴臣(びとうはるおみ)には実体がない。すなわち幽霊である。

「今、所長は不在にしております」

 奏多はもう一度言った。彼の(かんばせ)にあせりの色が浮かんでいる。通常であればメリットとなるはずの奏多の身長の高さも、美しい顔立ちも、今この瞬間においてはマイナスでしかない。

「じゃあ、いつ戻ってくるんだよ!」

 そう無精ひげに迫られる。男の頭は禿げあがっていた。尾藤は享年七十四歳。死因は心臓病だった。盗まれた骨董品を取り返してほしい、それが今回の依頼だったのだが……。

 肝心の所長である天道寺遥香がどこにもいないのである。依頼を受けてからもう一週間にもなろうとしていた。

 遥香とつきあいの長い助手は彼女が捜査をまったくしていないことに気づいていた。金にがめつい彼女ではあったが、独特の美意識があり、それに依頼がかなわない場合、とたんにやる気がなくなることをこの助手は嫌というほど身にしみて分かっていた。

 しかし、そのことを目の前の依頼人に伝えるわけにもいかず、しかも彼特有の律義さで、懇切丁寧にクレームへ対応しようとしていたから、すっかり疲弊してしまう。この依頼人には遥香から、放っておくようにという指示が出ていたのだが、彼はそれを守り切ることができなかった。放っておくだけなら、霊視しなければいいだけだから簡単なのである。

「遥香さん、戻ってこないの?」

 事務所へ遊びに来ていた加恋が聞く。奏多は何も言わずに首を横に振った。

「帰ってくるとは思うんですけどねぇ」

 曖昧な返事をして、奏多は目の前の老人に向き合った。そこから三時間、彼はえんえん老人の悪態を聞き続けた。


 遥香は河川敷を歩きながら、今朝の会話を思い出していた。

「お嬢様、どこまで行かれます? 今日は大学休みですよね」

「捜査だよ。捜査」

 そう答えたものの「助手としては」有能なこの男の目はごまかせなかった。

「そう言って、もう一週間が経とうとしてるじゃないですか。僕はもうあの人に嫌ごとを言われ続けるのはしんどいです」

 遥香も遥香でこの助手が今回の依頼人をよく思っていないのは気づいていた。彼が名前を呼ばず、あの人、とだけ言っているのがその(あかし)である。

遥香は奏多に依頼人を無視しておけ、と伝えておいたはずだった。そのうえで、彼が自分の指示を守らないことも知っている。奏多が良くも悪くも律儀な性格で、いかにも日本人らしいお役所気質なことも分かっていた。彼ならば自分が気に入ろうが気に入るまいが、受けた仕事はきちんと果たすだろう。遥香は奏多のそういうところをもどかしく思っているが、反面それを承知のうえで遥香が奏多に甘えている部分もある。今回であれば奏多の余計な行為は依頼人のガス抜き行為になっている。

 遥香はそれを役割分担だと思っていた。遥香は事件を解決する。奏多はその他の雑事をサポートする。それは幽霊の依頼を解決するという特異なこの業態において大切なことだ。この世に未練を残すほどの思いを受けとめるのにはエネルギーがいる。それを解消するのにもエネルギーがいる。両方一人の人間がやろうとすれば簡単に潰れてしまう。だからこその役割分担だった。前者が奏多の役割。後者が遥香の役割。仕事だから役割を果たすのは当然である。だからこそ、お互いに嫌ごとを言い合う。お互いの大変さは分かっていたとしても。

 とはいえ、と注釈がつく。今回は「未練」というよりも「執着」に近いものだと遥香は思っている。そして、奏多も言語化しないだけで同じことを考えているだろう。

 「未練」と「執着」は似て非なるものだ、と遥香は思う。幽霊における「未練」は自分で解消できえなかったもの、「執着」は自分で解消できえたものだと。表立って口には出さないが、「執着」ぐらい生前に自分で何とかしておけよ、という思いがある。

 遥香だってここ一週間何も調べなかったわけじゃない。表面的なことはだいたい調査を終えて、依頼人にも多分の責任があることが分かってきた。だからこそやる気をなくす。それでも仕事だからやらなければならないのも分かっている。分かっているがやりたくない。だからこそこうして河川敷を歩いている。


 川から吹き上げる気流が心地いい。若草の爽やかな香り。足もとを跳ぶ雨蛙。空のいびつな雲のかたち。駆けだす子ども。それを見守る母親。平穏そのものの風景だった。

 三角屋根の家々。マンション、学校、会社。人々の住まう場所は一見平静を保っているように見える。でも、そのなかにはきっとそれぞれのドラマが広がっていて、喜び、悲しみ、怒り、いろいろな感情が渦巻いているんだろう。道の延長線上に自分の知らない人たちがいる。それを考えるだけで遥香はうれしかった。

 向かい側から来る風を浴びて、住宅街を進んでいく。露店で干物を売るおばあさん。下校時刻でないのにランドセルを背負って帰る子ども。何でもない景色をキャンパスに描いているおじいさん。何十分も川面を眺め続けているサラリーマン。それぞれにそれぞれの人生がある。

 裏路地に入って人影はほとんど見えなくなった。電柱には「山新地(やましんち)ニュータウン」と地名が記してある。周辺の住宅には蔦が生い茂っていて、洋風の鉄格子は錆び、「この道通学路、児童に気をつけて通行しましょう」と朱文字で書かれた看板は少し斜めに傾いていた。

 そんな「かつての」ニュータウンの狭い路地を抜けていくと、白いバルコニーが特徴的な一軒家があった。建物自体は周りの住宅とほぼ変わらないくらいに建てられたのだろうけれど、庭の手入れがよく行き届いていて、鉢植えは整然と並び、つい最近塗りなおされたであろう郵便受けは、塗りむらもなく真っ白だった。

 一軒家の前では、三十代くらいだろうか、オレンジ色のトレーナーを着た女性がきょろきょろとあたりを見回していた。黄色い交通安全のカバーをかけたランドセルを背負った男の子が心配そうに見つめている。状況から見てこの家の人のようだった。表札には伊藤、と書かれている。伊藤道繁(みちしげ)伊藤美代子(みよこ)伊藤拓海(たくみ)、三つの名前が並んでいた。

 女性がこちらをちらちらと見ている。助けを求めているような気もする。目が合っては、すぐにそらされる。どうしたらよいのかお互いに分かりかねていた。

「いいお庭ですね」

 遥香はとりあえずそう言ってみる。美代子という名前であろう女性は、曖昧に笑った。

「どうかされたんですか?」

 遥香は美代子が一番言ってほしかっただろうセリフを言う。

「ちょっとお皿を盗まれちゃったみたいで……」

「お皿? 盗まれた?」

「……結構大きいお皿だったんですけど。どこにも見当たらなくって」

「お高いものだったんですか?」

 美代子さんはうつむいた。私を上目づかいに見る。

「三十万円ほど」

「三十万?」

 遥香はつい大声をあげてしまう。美代子さんは唇の前に人差し指を立てた。

「そういうわけですので」

 美代子は会釈をして会話を終わらせようとした。

「探しましょうか?」

「え?」

「私、探偵なんです」


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