ブラウニー
「加恋さん、お皿を準備してください」
奏多がオーブンをのぞき込みながら言う。吹き抜けの天井の部屋にはブラウニーの香りがいっぱいに漂っていた。
「はい。ただいま!」
背の高い食器棚の中から適当なお皿を加恋が探している。
「どれでもいいよ。それよりココアは思いっきり甘くしてね」
遥香が隣室のソファに寝ころびながら言った。仰向けになり、人気アイドルが表紙に使われたファッション雑誌をだらだらと眺めていた。
「お嬢様も少しは手伝ってください!」
厚手の手袋をはめたまま、奏多が叫んだ。すぐにこんがりと焼けたブラウニーがオーブンの中からあらわれる。加恋が遥香を一瞥してため息をついた。
「私は今お疲れモードなの。放っておいて」
「放っておいてって。そういう問題じゃ……」
遥香はごろりと一回転した。
「いつもこんな感じなんですか? 探偵のとき以外は」
加恋があきれながら聞く。
「はい。探偵のとき以外は」
奏多がブラウニーへ慎重にナイフを入れながら答える。四かける四、合計十六個のブラウニーができあがる。
「もーらいっ」
遥香がそのど真ん中の一個をつまみあげる。
「あーっ!」
奏多が大声をあげた。
「お嬢様、僕の……、できたての……」
奏多は震えながら拳を握る。
「このままだと一個あまるでしょ? けんかにならないようにね」
「それって一番けんかになる選択じゃないですか……。まったく作ってない人間が、一個多くもらうだなんて」
「進藤くん、気持ちは分かるけど落ち着いて」
加恋が三人分のカップを用意しながら言った。
「加恋、結局昇平さんに話したの? 美音さんのこと」
加恋の手がとまった。カップと机が触れ合って小さな音を立てる。
「まだ言えてない」
「そっか」
「良く……ないかな?」
加恋が遥香の表情を凝視しながら言った。
「いいんじゃない?」
遥香がこともなげに言う。
「自分がやったことをたっぷり感じさせるためには」
「そんな、じゃあ……」
加恋は慌ててスマホを取り出す。
「どっちにしても同じことだよ」
「え?」
「どっちにしても向かい続けていくことになる。自分がやったこと。やってきたことに対して。加恋が伝えようと伝えまいと同じ」
遥香はココアの粉と砂糖の入ったプラスチックケースを机の上にそっと置いた。
「そりゃ辛いよ。自分が彼女を裏切って、彼女をだまして、本当のことも言わず今まで過ごしてきたんだから」
奏多がお皿にブラウニーを取り分けながらぽつりとこぼす。
「悲しいですね」
「奏多、あなた同情してないよね?」
少し責めるように遥香が言う。
「分かりません」
「そっか」
遥香は微笑みながら自分のカップにココアパウダーを入れる。
「たぶん、怖かったんだろうね。昇平さんは。美音さんが弱っていくこと、美音さんが死に向かっていくこと、そしてその人を愛し続けること」
遥香は砂糖をたっぷりカップに入れる。
「人間はずっと強くはいられないからね。奏多が引っかかったのもたぶんそこなんでしょ?」
「……はい」
「でも、その弱さを身内は許せるかっていうと必ずしも許せないよね」
加恋が少しためらいながらうなずいた。
遥香の前の真っ白な皿にブラウニーが置かれた。
「お嬢様、フォークで召し上がりますか?」
「スプーンをお願い」
奏多はスプーンをそっと遥香の前に置いた。
「お姉ちゃん、満足してくれたかな? 本当のことが分かって」
加恋が手を洗いながらつぶやく。遥香は首を横に振った。
「どうかな? 見たくない、聞きたくないことと向かい合うことだからね。やっぱり辛かったんじゃないかな」
「じゃあ……」
「初めの依頼どおり、昇平さんに伝えることもできた。きれいなものをきれいなまま終わらせることも。少しだけの嘘を振りかけて」
遥香はココアにお湯をそそぐ。溶けきれなかったココアの粒子がぽつりぽつりと表面に浮かんでいる。
「でも、それは美音さんの心の隙間を埋めることになる」
「いけないことなんですか?」
怪訝な顔で奏多が聞く。
「いけないわけじゃない。だけど、それは偽物だから」
「……偽物」
「偽物が偽物であることは美音さんにも分かる。そしてそれはきっと未練につながっていく」
遥香はカップをゆっくりとかき混ぜる。
「何が正しいのかは分からない。でも、私は私にできることをやるだけ」
「お嬢様、準備ができました」
「ありがとう」
遥香、奏多、そして加恋はそれぞれの席に着いた。奏多はコーヒー、加恋は紅茶をそれぞれ淹れる。
三時を知らせる鐘が鳴った。
「うん、ちょうどだね。じゃあ、いただきますか」
遥香の合図で奏多も加恋もフォークをブラウニーにいれる。
「あ、おいしい」
口に入れた瞬間、加恋が言う。
「進藤くん、これおいしいよ」
「お褒めにあずかり恐縮です」
遥香は少し難しそうな顔をしている。
「……ちょっと苦いな」
「そう? 十分甘く感じるけど」
「奏多、冷蔵庫からミルクとって」
遥香がカップを置く。
「お嬢様、先ほど砂糖入れられたばかりですよ。しかもそれココア……」
「いいから」
不承不承に奏多が冷蔵庫に向かう。奏多は遥香に牛乳を手渡した。
遥香のカップに牛乳が注がれる。柔らかい渦がえがかれていく。浮かんでいたココアの粒子がカップのなかに溶けていった。(了)
お気づきになられた方も多いと思いますが、今回のタイトルの元ネタは、
イアン・フレミングの「ロシアより愛をこめて」です。
私自身、推理小説が大好きで、自分で書くには高度なパズラーはなかなか難しいのですが、
楽しませていただいた分、少しでも何かしらの還元ができるように紹介できる場を作っていきたいと
思います。
次作もタイトルはミステリーのもじりになります。
では、次のあとがきで。