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はるか、かなた  作者: 翡翠
この世より愛をこめて
3/22

つながる

 遥香たちが通っている京築大学には二か所学食がある。洋風レストランのスピカ。和風レストランの北斗。どちらも星の名前を持つ。長澤加恋が入っていったのは、スピカの方だった。

 遥香と奏多がそのあとから続いていく。尾行なんて大げさなものじゃない。学生が学生らしく振舞うだけでよかった。

二人は学食の隅に立ったまま冷水だけをちびちびと飲みつつ、学生がごった返す昼休みどき、窓際の席でぽつんと一人座っている加恋を眺めていた。

「お嬢様、どうやって声をかけられるおつもりですか? なかなかハードルが高そうですよ。場合によっては逃げられるかも」

「私を誰だと思ってるの? もう準備万端に決まってるじゃん」

 奏多は驚きを隠せない。遥香は平然と水を飲んでいる。

「もしかして、何か長澤加恋とつながりが……」

「うん。さっき作った」

「え、さっき?」

 困惑を隠せない奏多をよそ目に、遥香はためらいもなく加恋の目の前の席に座った。

「長澤さん、だよね? さっきは講義のノート見せてくれてありがとう」

 遥香は、奏多がよく見慣れたよそ行き用のスマイルを作っている。

「ああ、日本文学基礎理論のときの……、ううん全然気にしなくて大丈夫。自分の勉強にもなったから」

 少し顔をこわばらせながら、加恋が微笑んだ。

つながりって、これか。奏多は少し離れた場所であきれる。明らかに相手もいやいやながらだし、これでうまくいくのだろうか? 

そうやきもきしてみるけれど、この状態で二人の間に割り込んでいくことができるはずもなく、他の学生や講師のとめどもない騒音のようなやり取りの合間から、奏多は遥香と加恋の会話に聞き耳を立てるしかなかった。

わざとらしく遥香があたりを見回した。

「困ったな。全然席が空いてない。悪いけど、ここで食べても大丈夫?」

 加恋はためらいながらうなずく。遥香は間髪入れず、自分の荷物を加恋の前の席に置いた。

「ちょっと自分の昼食取ってくるから、荷物見ててもらっていい?」

 加恋は少し圧倒されながら、いいよ、と言った。

 しばらくして、遥香が学食用のトレイをもったまま戻ってきた。のんきそうにゆっくりと手まで振っている。加恋も小さく手を振り返す。

「入学してひと月くらいたったけど、なかなか大学に慣れないよね」

 Aランチのチキンカツの一切れを箸で持ち上げながら、遥香が言った。加恋の表情が少しほころぶ。

「そうなの。授業もそうだけど、私、人と話すのすごく苦手で。友達もなかなかできなくて……」

 加恋は何度も遥香を見たり、目をそらしたりしながら切れ切れに言った。遥香は目線を外すことなく、前傾姿勢で加恋の話を聞いている。加恋の口調にだんだんと熱がこもっていった。

「本当は大学やめようかな、って何度も考えてたの。私なんかが大学に行っていいのかなって」

「え、でも、ちゃんと試験受けて、合格して、この学校に入ってきたんでしょ?」

 加恋は口もとを左手で押さえた。遥香はゆっくりとなだめるように言う。

「何か気になることがあるんだね?」

「お姉ちゃんがどう思うかな、って、それだけが心配で」

 加恋が破裂するように叫んだ。奏多は「お姉ちゃん」の一言にはっとする。

「お姉ちゃん? お姉ちゃんがどうしたの?」

「お姉ちゃん、六年前に病気で死んじゃって、でも、そのとき私ぜんぜんお見舞いにいかなくって。だから、ずっと……、私は」

 加恋の目が潤んでいる。遥香は席を立ち、加恋の肩をさする。

「三限目空いてる? もう少し一緒に話そうか?」

 加恋の耳もとで遥香がささやく。遥香が差し出したハンカチで涙を拭きながら、加恋はかすかにうなずいた。

 一通り泣き終わってしまうと、加恋はテーブルに昼食を残したまま、お手洗いに行くと言って席を立った。すかさず奏多が駆け寄ってくる。

「お嬢様、さすがです。いったいどんな方法を使って……」

 そう無遠慮に尋ねる助手へ遥香は冷たく言い放った。

「ちょっとは空気読め! このバカ!」

 この探偵に理不尽なことで怒鳴られるのはしょっちゅうだが、一番心にくるのは正論で叱られるときだ。奏多はすごすごと食堂を後にし、上司の帰りを待つことにした。


 だだっ広い大学のキャンパスの中には使われていない教室も多い。遥香は加恋と連れだって、図書館の真向かいにある八〇〇号館の一階へと向かった。外は初夏のまばゆい光がこうこうと照りつけていたが、その廊下は湿っぽく、薄暗く、小さな明かりがほのかに点いているだけだった。

 遥香は再び泣きそうになっている加恋の肩を、親鳥が小さな雛を守るように優しく抱きながら八〇二号室のドアを開けた。教室の中はもともと少人数のゼミで使われるもので、十名ばかりが座れる長方形の長机が向かい合わせに二脚、ぽつねんと存在しているだけの小ぢんまりとしたものだったが、それでも遥香と加恋、二人だけで話すにしては広すぎる部屋だった。

 遥香は加恋を入り口とは反対側の椅子にいざなうと、部屋の電気のスイッチを入れた。

 頭上の蛍光灯が一回、二回とまばたきして白色の光をともす。遥香はそれを確認してから、加恋のはす向かいの席に座った。

「さっきはごめんね。私が無神経なことを言っちゃったから……」

 遥香の言葉に加恋が激しく横に首を振る。

「ううん、私こそごめん。ご飯食べてるときに泣いたりしちゃって」

「大丈夫。全然気にしてないよ。それより、お姉さんのこともうちょっと教えてくれる?」

 加恋は唇を噛んだり、髪を触ったりして、なかなか決心がつかない様子だったが、微笑みをたやさない遥香を見て、ようやく加恋の小さな唇が開いた。

「私、お姉ちゃんのことが嫌いだったの。ずっと嫌いだった」

 ぽつりと重たい一言がこぼれる。その声は狭い一室の中でも聞こえるか、聞こえないか分からないくらいにかすかだった。

遥香は壊れやすいものを受け止めるかのように、やわらかな口調でつぶやく。

「ずっと苦しんでたんだね」

 その遥香の言葉が呼び水となって、加恋の思いが弾け出してきた。

「……お姉ちゃんのことはっきり言ってそんなに好きじゃなかった。九歳も年が離れていたし、私より頭もいいし、気遣いもできるし、いっつも親から比べられるし。短大を出て、いい会社に就職して、その上、顔だって私よりもずっといい。見て」

 加恋は自分のスマホを出して、スワイプしながら美音さんの写真を探した。

「ほら」

 たしかに、きれいだ。鼻筋が通っていて、目はすらりとしている。細身の輪郭は西洋人と並んでもひけをとらないだろう。でも……。

「あなただって十分かわいいよ」

 加恋はせつなさのにじんだ顔で微笑する。

「……お世辞はいいよ」

 お世辞じゃない。遥香は心からそう思った。お姉さんと系統は違うかもしれないけど、加恋だって目が大きいし、丸みをおびた輪郭にはかわいらしさがある。鼻もお姉さんほど高いわけではないけれど、加恋の顔には似合っている、と思う。

「こういうのって個人の好みだから分からないけどさぁ」

 遥香は加恋の後ろに回る。

 髪ゴムを外す。柔らかい髪質の髪がふわりと広がる。そのはねた部分をほんの少しだけ整えてあげる。

「どう?」

 遥香はバッグから鏡を出して加恋の顔を映した。

「そう……かな」

 うん、かわいい。遥香は満面の笑みを浮かべた。その表情を見たからだろうか、加恋も少し嬉しそうだった。

「ごめん、話の腰を折っちゃった。続けて」

 加恋が強くうなずく。

「……正直言って、お姉ちゃんのことは嫌いだった。でも、お姉ちゃんが家から出て行って、一人暮らしを始めて、入院して、お見舞いにもろくに行かないまま亡くなって。六年たったけど、全然忘れられない。日が経つたびに嫌い以外の感情がどんどん湧いてくるの」

 再び、加恋の目に涙があふれてきた。遥香はもう何も言わない。あとは彼女の感情のおもむくままに任せた方がよいと、この若い探偵は知っていた。

「お姉ちゃんごめんね、って。私だけ大学に行かせてもらって、私だけ健康な体で、私だけ何も考えなくて。もし、お姉ちゃんが生きていたら、きちんと謝りたかった。ひどいことを言ってしまってごめん。お見舞いにも行かなくてごめん。私だけ幸せでごめん、って」

 加恋は肩で息をしていた。どうすることもできない虚しさを思っているのだろう。放心しながら天井のまだらになった薄黒い染みを眺めている。

「お姉ちゃんに会いたい?」

 遥香はつとめて優しくきく。加恋が遥香をにらむ。

「それは会いたいよ! 会ってきちんと謝りたい。でも、どうすることもできないじゃない。だってお姉ちゃんは……」

 遥香は加恋の隣に座ると、その右手に自分の左手をそっと重ねた。怒りよりも恐怖よりも驚きが勝ったらしい。加恋は時がとまったように動かない。

「右手に意識を集中して」

 加恋の顔に疑問符が浮かんだ。遥香はそれを打ち消すように言った。

「お姉ちゃんに会わせてあげる」

 操られているかのように加恋がこくりとうなずく。遥香の左手に加恋の指が絡まった。

「だんだん、あたたかくなってきたでしょう? そのまま意識を腕にもっていって」

 加恋の右腕が少しずつあがっていく。それに応じて遥香の指示もだんだんとゆっくりになっていく。

「そこから肩……、手……、首……、口……。目までたどり着いたらそこでとどめて」

 加恋はもはや、なされるがままになっていた。意識を集中しようと目を見開いている。

「お姉……ちゃん」

 どうやら遥香と同じ人物が見えているらしい。遥香は歯を食いしばりながら、どうにか笑顔を振り絞った。二人分の霊視は、自分自身が霊視するのにくらべて三倍以上の気力や体力を消耗する。それだけではない。遥香は、今は霊体となった長澤美音をこちらに呼び寄せ、かつ美音にはこちらの様子が分からないようにするという離れ業を演じていた。それはとてつもない技術を要する上にしんどい作業であったが、そうしなければならない理由が遥香にはあった。

「お姉ちゃん!」

 加恋が叫んだ。まずい。遥香の左手の指先が、加恋と美音がつながってしまったことを察知していた。すぐさま霊視を解除する。季節外れの霧雨が晴れていくときのように、長澤美音の姿が消えてゆく。

 体全体がきしむようにだるい。遥香は面倒なやり方をとったことを少なからず後悔していたが、小休止をはさむ余裕はなかった。長澤加恋が化け物にでも遭遇したような目つきでこちらを見ていたからだ。

「あなたは……誰?」

 加恋の口もとが震えている。相手が緊張をしているときにこちらが慌てるのは得策とはいえない。遥香はゆっくりと細い息を吐きながら、自らのリュックに手を伸ばした。

「自己紹介が遅れました。私は天道寺探偵事務所、所長。天道寺遥香と申します」

「……探偵?」

 加恋の警戒の色が濃くなる。差し出した名刺をまじまじと見ていた。

「はい。お姉さまからご依頼を受けております。何かあればそちらの名刺の場所に」

 遥香は深々と一礼した。加恋は名刺を親指と人差し指ではさんだまま動かない。

「今日はお疲れと思いますのでゆっくりお休みください。長澤加恋さん」

 そうねぎらいの一言を添えて、この湿っぽい古びた教室を後にした。


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