厄介な幽霊
遥香は狭い車内で暴れる星蘭、いや加藤実鈴を鏡越しに眺めながらうんざりしていた。
こういう幽霊が一番厄介なことを、いつも幼いころから祖母のそばで見てきた遥香は知っている。自分が亡くなったことに気づいていない。そして往々にしてそういう幽霊は視野狭窄になる。
現に加藤実鈴がそうだった。いつもの高架下とファミリーレストラン、そしてかつて自分の住居であったアパート、そこの往復で完結してしまっている。ある場所に固定化してしまう霊は一定数いるもので、巷でいうところの地縛霊ほど動かないものでないにしろ、一定のルートを行き来することを繰り返し、その自分の行動を不思議と思わない。
「お嬢様、この車どうしましょうか?」
この旧型のカローラを探し出すのにも苦労した。同じ型、同じカラーリングの車をレンタカーで借りるわけにもゆかず、中古車店で探し出し、無理を言って貸し出してもらったものだ。それなりに値も張った。このままペイできないうちに返すわけにもいかない。
「とりあえず、予定していたところ全部回ろう」
「はい」
奏多はアクセルを踏みなおした。
「ごめん、私が失敗しちゃったかもしれない。もう少しねばるつもりだったんだけど……」
遥香がしおらしく謝った。この探偵にしてはめずらしいことだった。
「いえ、今回はお嬢様のせいではないです」
「今回は?」
遥香が奏多をにらみつける。
「いえ、いつも、今回も」
しどろもどろになりながら奏多がハンドルを切る。
小競り合いをしていても後部座席の状況は変わらない。加藤実鈴が目を血走らせて暴れまわっていた。
「お嬢様、僕もだんだんしんどくなってきました」
「うん、私も」
霊視をするということは、その霊のエネルギーをそっくりそのまま受け止めるということでもある。こちらに害のない霊ならまだしも、今のように自分の存在を認識できないまま、感情が暴れている霊を受け止めるのは気力を消耗する。
「いったん、霊視やめてみる?」
「それはちょっと……」
奏多が口を濁す。霊視をやめるとなると、その霊とのコミュニケーションをそのまま遮断するのに等しい。オンラインでビデオチャットをやっているとき、一方的に回線を切断する感覚に近いかもしれない。霊との対話はイコール信頼関係である。それをこちら側から切ってしまえば、以後の関係など築きようがない。
「じゃあ、仕方がないか。回想法使ってみるよ」
遥香はうなるようなエンジン音の合間から、一言、一言はっきりと話し始めた。
「あなたが亡くなったのは、冬の寒い日のことでした。その日の気温は零下五度で、あなたは春明さんのところへお金の無心にいこうとしていたのです。
あなたは霊になられてからもそうであったように、午前中は歌の練習や作詞を行い、午後はレジ打ちのアルバイトをして生活されていました。ですが、フルタイムのお仕事ではなかったため、到底、生活費には足りません。家賃の滞納がひと月、またひと月とかさんでいきました。食費を切り詰めてきた生活も限界に近づいていました。あなたが発見されたときの体重は三十七キロあるかないかだったそうです。
プライドの高いあなたにしてみれば苦しかったでしょう。ご両親、お友達、親戚、さまざまなところに電話をしてお金を貸してもらえないか頼みました。消費者金融にももう借りることができません。春明さんのところに行くのは最終手段でした。出てもらえないつもりであなたは電話をかけます。
ですが、春明さんは快くお金を貸してくれると言ってくれました。相談に乗るからこっちへおいで、とも。あなたは期待に胸を膨らませながらお二人で住んでいた春明さんのマンションに向かいます。ですが、その途中、あなたは倒れられ、帰らぬ人となりました」
遥香はとうとうと加藤実鈴の死因を述べたてた。
「どう……かな?」
運転席の奏多に聞く。奏多はバックミラーを一瞬見ながら、首を横に振った。
「仕方ない、これはあまり使いたくなかったんだけど」
遥香はしっかりと前を向き、力強く話し始めた。
「あなたがライバル視していらっしゃった、坂上望海さん、覚えていらっしゃいますか?」
実鈴の動きが一瞬止まった。遥香は内心たしかな手ごたえを感じながら続ける。
「あなたの所属していたコピーバンドから、芸能界入りされた方です。あなたは望海さんをライバル視されていながら、望海さんが歌手活動をすぐに辞められたことを喜んでおられた。そうですね。
ですが、望海さんは芸能活動自体はやめられていなかった。作曲業に回られたのです。昭和を越えて令和、えー、昭和の次の次の元号です。令和になられても名作曲家として名を馳せていらっしゃいます。作曲家SAKAUEとして。あなたは同じスタートラインに戻ったと思っておられた。でも違うんです。あなたと望海さんの間はもっと広がってしまった。あなたが亡くなっている四十年間の間に。加藤星蘭という芸名はもう捨てましょう。あなたが高校生のときに味わった栄光はもうないんです。本名に戻りましょう! 加藤実鈴という本名に!」
遥香は一気に言ってしまって、少し息を荒くしている。奏多がハンドルを使いながら拍手した。
「これでダメだったら打つ手ないわ」
遥香が行ったのは圧迫法という霊的アプローチの一種である。先ほどの回想法がゆるやかに自らの立ち位置を思い出させるのに対して、生前のふれられたくない部分、センシティブな部分に対して深くアプローチしていく。刺激を与えて霊的な反応をみるためだ。
カローラが停止線の前で止まった。対面する信号機が赤になったのだ。二人はそろって後ろを向いた。
実鈴はかえって暴れだし、後部座席のシートの上で七転八倒していた。
「奏多、完全に停止してるよね」
「はい」
「今のうちに……」
「今のうちに?」
「降りていいかな?」
遥香は奏多に向かってとびきりのスマイルを作った。
「良いわけないでしょ! 僕一人だけ置いていくつもりですか!」
「もう無理だって。やれる手は全部尽くしたって!」
「お嬢様、春明さんにお約束したでしょう。かならず実鈴さんの未練をなくすって」
「春明さんとは約束したよ。でも、もうどうしようもないじゃん。やれることなんて一……つも」
遥香はにやりと笑った。
「一個だけあったわ」
「え?」
「分からない? 春明さんをここに呼び出すんだよ」