カローラに乗って
ひどく厄介なこと……、星蘭は探偵から言われた言葉を反芻しながら、背筋をぞっとさせた。
夫が現れたこと。しかも二回も。なぜ、このタイミングで現れたのか。いろいろな疑問点があり、本当なら彼女に尋ねたかったが、返ってくる答えが何かが怖くて聞けなかった。
星蘭が黙っていると、探偵が先に言った。
「もし、ご都合がよければ明日の午前中、ここにお越しいただくことは可能ですか?」
よりによって午前中か……、星蘭は二人に見えないよう唇を噛んだ。朝のルーチンワークを崩してしまうことになるが仕方ない。しぶしぶうなずいた。
「ああ、それから」探偵が付け加えるように言った。「少なくとも今日は幽霊を見ることはないと思いますよ。安心して眠られてください」
内心、何の根拠があってと思ったが、顔にも口にも出さない。結局、紅茶は一滴も飲まずに天道寺探偵事務所を後にした。
翌日、天道寺探偵事務所を訪ねてみると、赤いカローラが止まっていた。
この車に乗っていくのだろうかとぼんやりと眺めながら、昨夜来た道を通っていく。初夏の日差しに照らされて、白いレンガに囲まれた西洋風の池の水面がきらきらと光っていた。探偵の言うとおり、夫の幽霊が出なかったこともあって、なんだかすがすがしい気持ちになる。星蘭のなかで探偵の評価がかなりあがった。あの子はいけすかなくて、生意気だけれど、それなりにできる人間なのかもしれない。
やはり玄関のドアは開いていた。今日は星蘭が来ることが分かっているのだから、何も不自然じゃない。玄関には遥香と奏多両方が出迎えに出ていた。二人とも、星蘭が来る前から頭を下げて待っていた。
昨日の態度をあらためたのだと思う。行き届かないのは客商売としてはやはり良くない。だが、それも若さゆえだったのだろう。アルバイトすらしたことがないのかもしれない。一度言ってあげれば分かる。星蘭も新人類などと呼ばれ揶揄されている側だ。自分より上の世代の人間から、頭ごなしに叱られることの不快感はよく分かっている。
「加藤様、奥にお茶を用意しております。どうぞお入りください」
「いらないわ」
ゆっくりしている時間など、星蘭にはなかった。朝の練習も、作詞も放り出してきてしまっている。こんなどうでもいいことはできるだけ早く終わらせなければならない。本当なら自分が一緒にいかなくても彼女たちだけで処理するべきことなのだから。
「……そうですか」
奏多ががっかりした表情で、奥に行こうとする。それを遥香が落ち着いた声で止めた。
「奏多、いい。そのまま行こう」
黒猫が少し気取りながら、こちらに向かってくる。
「マープル、お留守番お願いね」
遥香はゆっくりと猫の背をなでた。
「お待たせしました。出発しましょう」
奏多にエスコートされて、カローラのなかに乗りこむ。何か黴のようなにおいがした。客を乗せるのならきちんと掃除しておくべきだろうと思う。
奏多が運転席に座り、遥香が助手席、後部座席は星蘭が広々と使える状態になっていた。
エンジンが重たく鳴る。奏多は運転しなれていないのか、ミラーの調整も、ギアの入れ方もなんだかぎこちない感じだ。
「ねぇ、大丈夫? くれぐれも事故はおこさないでね。私たちが幽霊になったら困るでしょ?」
遥香と奏多は顔を見合わせた。
「……ええ、はい。努力します」
その言い方はたどたどしく頼りなかった。冗談で緊張をほぐしたつもりだったのだが、本当に大丈夫だろうか。星蘭はもしものときは私が代わりに運転しようと思った。
国道を抜け、海沿いを走る。窓から窓へ吹き抜ける風が心地いい。
「加藤様、この車のことを覚えておられますか?」
遥香が助手席から言った。
「え?」
「この車は、春明様が初めてお買いになった車だったのです。も中古車でしたが、働き始めたばかりの春明様にはいっぱいいっぱいの額でした。高校のときのバイト代を頭金に、分割払いで三年。とても思い入れの強い車だったと聞いています」
「あなた、春明のこと知ってるの?」
「ええ。私の依頼人ですから」
遥香はバックミラー越しに言った。星蘭は大きく身を乗り出す。
「ちょっと待って。依頼人ってどういうこと?」
「おそらく何か勘違いをされていると思うのですが、私たちの依頼人はすでにこの世におられない方、俗にいう幽霊の方のご依頼だけをお受けしています」
「じゃあ、私の依頼は受けてもらえないの?」
一瞬、前の座席の二人が無言になる。
「それは……、私の依頼人はあくまでも春明様ですから」
私は騙されたのだと思った。まさか、自分が依頼しようと思っていた探偵が、幽霊の、しかも夫の側の探偵だったなんて!
「ここでいいから降ろして」
「降ろせません。私たちには春明様のご依頼を完遂する義務があります」
「私にはそれにつき合う義務はないわ」
遥香の表情がだんだんと険しくなる。
「そうかもしれません。ですが、春明様はあなたのために私たちに依頼されました。そのお気持ちを少しでもいいのでくみ取っていただけませんか?」
「私のために? どうして?」
遥香は深いため息をついた。
「私が今から言う詩を少し聞いていただけますか?」
「なんで私があなたの詩を聞かないといけないのよ!」
そう言ってしまって、星蘭は思いなおす。
「いいわ。聞いてあげる」
あの探偵がどんな下手糞な詩をつぶやくのか見ものだ。私だって、詩くらい書いている。ちょっとくらい評価してやろうじゃないか。
もうあなたとはお別れしたの。あの寒い冬の日に。心配はしないでね。
元気でやってるから。だからもう私のことは気にしないで。自分のことだけ考えてね。
あなたをもう好きじゃない。でも、大切な人だから。
遥香の唇から出てきた詩を聞いて、星蘭は固まる。そして少しずつ怒りがこみあげてくる。
「それ、私が昨日作った詩じゃない! 何であなたがその詩を知っているの? もしかして盗作?」
遥香はゆっくりと首を横に振った。
「これはあなたが四十年前に作られた詩です。春明さんから教えていただきました」
「四十年前? どういうこと?」
「言いにくいことですが、あなたはもう亡くなっているんです」