二度目
唐突に玄関のブザーが鳴った。
親もきょうだいも、友人もすべての関係を絶っていた星蘭には思いがけないことだった。外へ出ると、夫であった海野春明の幽霊が立っていた。
幼いころから霊感があったわけではない。だが、そのとき見たものは幽霊という以外、表現できないものだった。久しぶりに見た彼は透き通っていて、昔のままの童顔だったが、どこかやつれていて、疲れているように見えた。
星蘭は悲鳴をあげようと思ったが、なぜか声がでなかった。恐怖のためだったろうか、それとも驚きの方が大きかっただろうか、いつも発声練習をしているはずなのに、「あ」の一言すら浮かばなかった。
星蘭は気分を切り替えて、行きつけのファミリーレストランへ向かうことにした。いつも、彼女の指定席は決まっていた。窓際の道路側に近い隅の席。そこで適当なものを頼みながら、作詞をする。頼むものは決まっていない。コーヒー一杯のこともあれば、きちんとしたランチのセットを頼むこともある。
だが、それはあくまで形式的なものにすぎなかった。極端にいえば何も食べなくたって、何も飲まなくったっていいのである。ただ、ここが飲食店である以上、何かしらは頼まなくてはならない。それだけのことだ。もったいない話だが、頼んだものをそっくりそのまま残していったことさえある。
あくまでここには作詞をしにきているのだ。星蘭は自分に念じる。将来自分が作った歌詞を、自分で歌うために。
ところが、今日に限って、詞の一行も、いや一文字も浮かんでこない。夫に会ってしまったからかもしれない。星蘭はため息をついた。
優しい人だった、振り返ってみてそう思う。星蘭は専業主婦だったから、家事全般は本来星蘭の役割だったのだが、洗濯も掃除も、炊事以外のことはほとんど彼がやってくれていた。
春明はゴム繊維の工場に勤務していたが、出社前に風呂掃除をし、歯磨きの前に洗濯機を回しておいてくれた。帰ってきてからは皿洗いをし、その流れでゴミ出しをする。
ありがとう、そうお礼を言うと、「いいから、ゆっくり座っておいて」というのが常だった。
正直、掃除も三日にいっぺんくらいだったし、星蘭が用意する夕食もスーパーのできあいの総菜が多かったのだが、春明は気にする様子をみじんも見せず、おいしい、おいしいと文句も言わずに食べてくれていた。
週末は朝から星蘭がやり残した掃除をし、日中はよくドライブに連れて行ってくれ、その夜は「いつも頑張ってくれているから」と外食をごちそうしてくれた。はたから見れば、彼は理想の連れ合いだったのだろう。
だが、星蘭はだんだんと春明に窮屈さと退屈さを感じるようになっていた。少しずつ、星蘭の唇から忘れかけていた歌がこぼれはじめた。
私は酬いを受けたのだ。そう思わないでもない。話し合いもなしに離婚届だけを置いてゆくのは自分勝手だったと自分でも思う。だが実際問題、もう一度彼が幽霊として出てきたらどうすればよいだろう。警察に言っても取り合ってくれるはずがない。
そもそも彼は生きているのか死んでいるのか。そもそも誰に相談すればいいというのだろう。
そう悩んでいたとき、ファミリーレストランのどこかから、誰かが話す声が聞こえてきた。
「もし、何か悩み事があるのなら天道寺探偵事務所に行ったらいい。霊の悩みを受け付けてくれるから。少なくとも話は聞いてくれるはずさ。俺は彼女に見合う報酬を用意できなかったから、途中で追い出されたがね」
「報酬?」
「ああ、若くて可愛い顔してるが、いけすかない女でね。十分な報酬がなければ受けられないっていうんだ」
「ああ、じゃあ俺もだめだな。ろくに金も持ってないもの」
「いちおう、依頼方法だけ教えておくよ。月曜日の夜八時に事務所に行けばいい。電話はだめだぜ。直接行かないと受けてもらえない。住所は……」
星蘭は男が言う住所を暗記した。記憶力には自信があった。だが、この情報を使うかどうかは別の話だ。星蘭の生活はかつかつで余計なお金を用意する余裕はない。それにいかにも怪しげな話だ。霊感商法の一種かもしれない。
でも、それで少し安心したらしい。詞の一節がようやく天からこぼれてきた。
もうあなたとはお別れしたの。あの寒い冬の日に。心配はしないでね。
元気でやってるから。だからもう私のことは気にしないで。自分のことだけ考えてね。
あなたをもう好きじゃない。でも、大切な人だから。
できあがった歌詞を見て笑ってしまう。この歌詞はもろに夫のことじゃないか。だが、この一節は自分の気持ちをしっかりあらわしていると思った。適当な節回しをつけて鼻歌で歌ってみる。悪くない。星蘭は上機嫌でマンションへ帰った。
帰った自分の部屋でゆっくりしていると、また玄関のブザーが鳴った。嫌な予感がした。
案の定、ドアの前に海野春明が立っていた。今朝見たときよりも心なしかさみしげな顔をしている。
星蘭はあとずさった。自分のマンションの一室に閉じこもり、がたがた震えていた。これから私は夫にずっと追いかけまわされるのだろうか? どうして彼は私のマンションを知りえたのだろうか? 彼は何を目的にして私のところにやってきたのだろうか? どうして、どうして、どうして。自問自答する。でも、答えはいつまでたっても出てこなかった。考えて考えて考えて、ようやく震えがおさまった。
彼女は天道寺探偵事務所に向かうことに決めた。