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はるか、かなた  作者: 翡翠
幽霊はベルを二度鳴らす
15/22

早朝練習

 明けの明星が朝焼けにのまれて消えかけるころ、加藤星蘭(かとうせいらん)はいつもの高架下の指定席へ向かう。

 ちょうど真正面に「遊泳禁止」の看板が見える場所。まっすぐ前を見つめる。

 まずはゆっくりと深呼吸して体の力を抜く。それから、「あ」の音だ。あ・あ・あ・あー、川のせせらぎをはさんで向こうに届くように、リズムよく、できるだけ大きな声で。

 それから同じことをお腹に手をあててもう一度。あ・あ・あ・あ・あー。今度は腹式呼吸を確認しながら行う。少し苦しいが仕方がない。これも夢のためだ。

 今度は高く、それから低く、同じことを行う。それが終わるとようやく、音階の練習。ドー、レー、ミー、ファー、ソー、ラー、シー、ドー。これを三オクターブの範囲で五セット。

 これが終わると腹筋の練習である。もしかすると地面や草の上に朝露がこぼれているかもしれないが、星蘭には気にならない。冷たいだとか、濡れているだとか感じるのならば、そもそも集中できていないのだ。足を伸ばしたまま、できるところまで腹筋を二百回、これは足と肘がくっつくぐらいに行わなければならない。

 これはすべてに共通することだが、誰も見ていなかったとしても、全力でやり切る。それは星蘭が自分自身に定めたルールだった。歌手になりたい人間なんて、それこそ星の数ほどいる。彼女たちを乗り越えて、いや蹴落としてでも自分がトップにならなければならない。世はアイドル戦国時代。何人(なんぴと)にも負けてはならない。ましてや、自分自身に負けるわけにはいかない。だからこそ、星蘭は手を抜かない。一日も、いや一秒も。

 苦しいトレーニングを乗り越えて、ようやく至福の時間にたどり着く。まずはお気に入りの曲を一曲。むろん、アカペラだ。音楽なんて流すのは逃げだ、と星蘭は思う。自分の声だけで人を感動させずしてアイドルとは名乗れない。バックバンドがアマチュアであっても、仮に機材が故障しても、歌一つでファンの心を震わせる。それもたった一人で。これが本物のアイドルだ、グループを解散して数年たった今、心からそう思う。

 グループ? あれは果たしてアイドルグループと言えるものだっただろうか? 高校一年生のころ、星蘭はまぎれもなく学年一の、いや学校一のアイドルだった。

 ひとたび星蘭たちのグループがステージに立てば、学校中の男子が彼女たちを目あてに押し寄せた。ステージと言っても、そこは高校裏のスナックで、星蘭たちのグループのメンバーの一人が、その店の娘だったから、営業前にその一角を貸し切ってステージと称していたにすぎない。

それでも「ファン」は集まった。どこからか噂を聞きつけて、男子生徒が一人、また一人とスナックにあらわれる。あまりにも人が集まりすぎて、うちの息子を篭絡(ろうらく)させるなと保護者からクレーム出たほどだった。

 星蘭たちのグループはいわゆるコピーバンドだったが、歌も、踊りも、演奏も他のアマチュアのコピーバンドとは図抜けていた。何より、星蘭が放つ歌い手としての魅力が観衆を強く惹きつけた。これは驕りではない。振り返ってみても思う。あのころの私は輝いていた。あのころの私の歌には魅力があった。しかし……。

 と、星蘭が思わざるをえないのは星蘭よりも先に他のメンバーが芸能界デビューを果たしてしまったからである。

 率直に言って、星蘭は他のバンドメンバーを舐めていた。私の歌のおかげで、このバンドは持っているんだ。あなたたちなんか私のおこぼれにあずかっているだけなんだ。思い上がらないで。あなたたちがちやほやされるのも全部私のおかげなんだから。そんな気持ちがあのころの星蘭の心を満たしていた。

なんて馬鹿だったんだろう。今になって後悔する。ギターを担当していたその子がグループを辞めると聞いたとき、辞めたいのなら辞めればいい、直接的にはそう伝えなかったが、心の中では舌を出していた。きちんとオーディションに参加したい、という脱退理由を聞いたときも、そんなの単なる言い訳でしょ。私ばっかり注目されて嫉妬してるから、脱退するんだ、そうひねて考えていた。

 だが数か月後、そのギターの子が小さな芸能事務所からシンガーソングライターとしてデビューし、雑誌の一ページを飾ると、立場が一気に逆転した。デビューシングルのことを語るそのギターのメンバーのインタビューには、星蘭のグループのことについては一言も触れていなかった。

 しぶしぶそのシングルを買って聞いてみると、悔しいほどに良かった。「私の」バンドの一部分としてしか見ていなかった彼女の魅力を、そのとき星蘭は初めて知った気がした。せめてもの慰みに、雑誌に載っている彼女のまぶたの一重から二重に変わった部分を指で何度もなぞった。

 一年生の終わりに、何の前触れもなく星蘭たちのバンドは解散した。きっかけは星蘭の一言で、反論は許さなかった。それから星蘭はバンドにかたむけていた情熱を恋愛にそそぎこむようになる。相手は一つ上の学年のテニス部員だった。色白の童顔で、背はそれほど高くないものの、気立てがよく、女子人気もあって、星蘭の傷ついた自尊心を回復するには十分だった。

 二年生の初めにはデートをし、ゴールデンウイークが終わるころには付き合いはじめ、彼が卒業して、就職するころには結婚の約束をとりつけた。

 彼が就職して三年目に、つまり星蘭が二十歳のころ、プロポーズを受け婚姻届に判を押した。新婚当初はめっきり名前を聞かなくなったギターの彼女よりも幸せのように思え、家事をして夫を待つ生活も満足ゆくものに思えたが、だんだんとその生活が平々凡々の極みに思えてき、家を空ける日が多くなってきたのだった。

 結婚から三年目、二十二歳になっていた星蘭は彼に何も言わずに当時二人で住んでいたマンションを出た。捺印済みの離婚届と、「もう一度、アイドルに挑戦させてください。自分勝手でごめんなさい」というメモ書きを残して。

 もう時間がないことは分かっていた。だからこそ、一日も欠かさず努力し続けてきたのだ。必死に。他には何も考えず。

 だが、そんな彼女のあわただしい日々は、にわかに終わりを告げることになる。透きとおった彼女の夫が、部屋の前に立っていたからである。


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