探偵の憂鬱。助手の憂鬱。
「ただいまー……」
そっとドアを開ける。奏多は無言で遥香を迎えた。深々と頭を下げて、頭が下がったまま戻ってこない。
「どうしたの?」
そう言いながら、遥香はその理由が分かっていた。掛け時計をちらりと見る。八時を回っていた。子猫の餌を買ったり、おもちゃを買ったりしていて遅くなったのだ。そのついでに帰りの公園で猫に餌をやったり、遊んだりまでしていたから、夕飯に間に合うはずがない。
「せっかく作ったご飯が冷めてしまいました」
食卓には遥香の分と奏多の分、両方のシチューとパンが置かれていた。
「ごめん……」
「それと手に持たれているその箱は何ですか?」
ほらきた。遥香は思う。説明が面倒くさい。お腹もすいてるし。段ボールを置いて、手を洗ってから、電子レンジで自分のシチューを温める。
「お嬢様!」
「せっかく作ってくれたんだもん。まずは食べようよ。せっかく待ってくれてたんでしょ?」
「……承知しました」
ようやく奏多が顔をあげた。
遥香と奏多、二人だけの無言の食事が始まる。
「奏多、今日のシチューすごくおいしい。すごく濃厚で」
「そうですか」
「いつも食事作ってくれてありがとう」
「はい」
歯の浮いたようなセリフを並べてみるが乗ってこない。やはり怒っているようだった。パンを細かくちぎって無言で食べている。
「……心配しました」
「うん」
奏多はシチューの皿にスプーンをさしこんだまま動かない。
「お嬢様がもうこの仕事放り出してしまわれたのかと思いました!」
「……そんなことするはずないでしょ」
なお遥香の顔をのぞき込む奏多へ、観念したようにこう続けた。
「そりゃ、私だってやりたくないよ。でも、依頼を断ったら離れなくなるからね」
幽霊を呼び出す。そしてその願いを聞く。それは慎重になされなければならない。俗にいう、遊び半分で霊を呼び出すなというのもゆえなきことではない。憑依した霊が離れなくなるからだ。自分の願いを聞いてくれると思っていたのに。自分の話を聞いてくれると言っていたのに。そんな生前に果たされなかった幽霊の思いが霊を見る側に、霊の話を聞く側に重くのしかかる。
原因不明の体調不良やストレス、不眠などが生じる可能性がある。そしてその反動は霊感が強ければ強いほど大きい。遥香や奏多の霊力ならばなおさらだ。
「三時間くらいあの人の話を聞いていました」
「……うん。しんどかったでしょ」
さすがに遥香もいやごとは言わない。奏多は重たい首を縦に動かす。
「私もしんどかった。調べれば調べるほどあの親父の悪いところしか出てこないんだもん」
二人のため息が重なる。
「今日は私、食後の飲み物いれるよ。何がいい?」
「ジンジャーエールで」
「きつくして大丈夫?」
「思いっきり、きつくしてください」
遥香は立ち上がると生姜の皮を剥き、一気にすりおろした。氷をあふれるほどグラスに入れ、すりおろした生姜とはちみつ、喉が痛むほどの強炭酸水をそこに注ぐ。あとは金属製のマドラーでかき混ぜるだけだ。
「はい」
遥香は奏多の目の前にジンジャーエールをおいた。奏多は弱々しく微笑む。
「お嬢様、ありがとうございます」
「どういたしまして」
遥香が淡々と言い終わったところで、箱の中から甲高い鳴き声が聞こえた。遥香が青ざめながら頬ばりかけたパンを皿に置く。
「やっぱり猫ですか」
「……飼ってもいいかな?」
遥香は精いっぱいの上目づかいで、助手の許可をもぎとろうとする。奏多はそれには答えず、遥香が買ってきたものを物色している。
「飼ってもいいでしょ?」
「だめです!」
いつもの助手らしくなくはっきりと断言されて、遥香はがらにもなく落ちこむ。そして奥へと消えてゆく助手をただ見送っていた。
こりゃ本格的に怒らせちゃったかな……、と遥香は思う。探偵と助手としての日数はそれほど長くはないけれど、先代の祖母の助手をしていたころ、それよりもずっと前から奏多のことは幼なじみのように知っていた。機嫌が悪くなると何週間も口を利かなくなることもあった。今回もそれかもしれない。遥香の憂鬱に憂鬱が重なる。
しばらくして、暗がりのなかから箱を抱えて奏多が戻ってきた。
「お嬢様、猫を飼うのならトイレくらい準備しておかないと。ケージも、首輪も準備してないじゃないですか!」
「え、猫飼うの反対なんじゃないの?」
段ボールから次々とグッズを取り出しながら奏多が言う。
「僕はずっと猫を飼いたかったんです! でも、先代が許してくれなかったから、こうやっていつでも飼えるように道具も本もずっと準備していて……」
一気に力が抜けた。言いようのない怒りが遥香の底からあふれてくる。
「何? 飼うの怒るのかとおもったじゃない! 何、その思わせぶりな態度!」
「お嬢様こそ無責任で準備不足すぎます。仕事にしても、この猫のことにしても」
「はぁ? さっきジンジャーエール作ってあげたでしょ?」
「それをたてに持ち出してくるのならもう僕は飲みません!」
険悪なムードの中、子猫がニャー、と一声鳴いた。二人とも黙りこんでしまう。
「ねぇ、奏多」
「何です?」
「一時休戦しない?」
「僕もそう思っていました」
「猫はかすがい」という言葉があるのかどうか分からないが、その猫の鳴き声をきっかけに二人は落ち着きを取り戻した。遥香も奏多も遠巻きに段ボールを囲んで、子猫がぐるぐる回っているのを眺めている。
「雄の猫ですか?」
「ううん。雌」
「名前はもう決められたのですか?」
遥香は横に首を振った。
「猫、じゃだめだよね」
「すごく他人行儀です。きちんと名前で呼んであげましょう」
「探偵事務所だからミステリーに関係ある方がいいよね」
「そうですね。それだと彼女も仲間意識が生まれるかもしれません」
遥香と奏多は深く考えこむ。
「じゃあ……、ホームズ」
「先例があります」
「そう。じゃあ、ワトソンは?」
奏多はバツが悪そうな表情になった。
「……僕の立場がありません」
遥香は唇をかみしめる。
「ポアロ」
「なんとなく、ちくちくいじめられそうな気がします」
「……耕助」
「余計な被害者が増えそうです」
遥香は深いため息をついた。
「まったく注文が多い」
「お嬢様」
奏多がぴしゃりと言う。
「そもそもこの猫はれっきとした女性ですよ。どうせ名前をつけるなら女性の探偵にあやかった方がいいんじゃないですか?」
「女性の探偵?」
遥香は奏多の言い方が癪に障ったが、たしかにその通りだと思った。多様性の時代とはいえ、雌猫なのだから女性の名前をつけるのが妥当だろう。
「マープル」
遥香は一語一語はっきりと言った。
「いいんじゃないですか。ちょっと若すぎるかもしれませんがね」
「まぁ、いいじゃん。若いマープルだって」
「マープル」
さっそくそう呼んでみる。ミャーという返事が聞こえた。
「分かっているっぽい。マープル!」
もう一度ミャーという声。
「ほら!」
「良かったですね」
遥香と奏多は微笑みあう。
「奏多」
不意に遥香が言った。
「何ですか?」
「私、本気出すから。あなたにもマープルにも負けてられない」
奏多は探偵の横顔をそっとのぞきこみ、背筋が寒くなった。そして彼女の言う「本気」の意味について洗い物をしている間中、ずっと考え続けていた。