割れたお皿
「猫を飼っていらっしゃるんですか?」
「それがね」
美代子は困ったように笑った。
「夫の親戚のところで猫が生まれたらしくって、子猫を三匹預かってるんですよ。数日間。旅行に行くとかで。もし、誰か育ててもらえる人がいたら、引き取ってもらっていいからなんて。無責任にもほどがありますよね。この子は喜んでいるんですけど」
遥香は曖昧にうなずく。
「全員黒い猫なんだよ。生まれてひと月くらいなの。すっごくかわいいよ!」
さっきまでのしょぼくれっぷりが嘘のように拓海がはしゃぐ。
「ごらんのとおり、ずっとこの調子で」
美代子は肩をすくめた。
「ほら、こっちに来て! 見せてあげる」
「こら! お姉ちゃんを困らせないの!」
美代子の叱責をよそに遥香は拓海に引っ張られていく。
連れていかれた先に段ボールがあった。見た目も大きさもそっくりの子猫が三匹、思い思いに鳴いている。
「うん。たしかにかわいいね」
「でしょ。でしょ?」
拓海がはしゃぐ。
子猫のうちの二匹が遥香に近寄り、手の甲をなめる。ざらざらとした感触。悪い気はしなかった。
「ねぇ、お姉ちゃん。一匹もらっていかない?」
唐突に拓海が言った。
「何言ってるの!」
美代子さんが叱る。
「生き物を飼うっていうのはね、それほど簡単じゃないの。命をあずかるってことなんだから。お姉ちゃんにご迷惑がかかるから、そういうことを言うのはよしなさい」
「はい」
拓海が小さくなった。
「遥香さん。本当にごめんなさいね。子どもの言うことですからあまり真にうけないように……」
「美代子さん、私、この子猫引き取ってもいいですか?」
「え?」
美代子が驚いている。
「一匹うちで引き取りたいんです」
「いえいえ、ただでさえご迷惑をおかけしているのに、猫まで引き取っていただくわけには……」
「私、一人暮らしなんです」
遥香はぽつりと言った。
「私、小さいころに両親も亡くしてて、きょうだいもいなくて、今一軒家に一人ぼっちなんです。だから猫を飼おうだなんて、エゴだってことは分かってます。それでもどうにか飼いたい子がこのなかにいて……」
「どれも同じ黒猫に見えますけど?」
拓海が子猫たちを先端にふわふわの毛がついた猫じゃらしであやしている。それにまったく反応を示さない猫が一匹だけいた。
「この子です」
遥香は指をさす。指をさされた子猫はぷいっとそっぽを向いた。
「こんな不愛想な猫でいいんですか?」
美代子さんがあっけにとられながら念を押す。
「この子がいいんです」
遥香は断言した。選んだ一匹がにゃあ、と一声鳴く。
「あ、この猫返事したよ。お姉ちゃんの言葉に返事した!」
拓海がはしゃぐように言う。美代子があきらめたように肩を落とした。
「この子猫もまんざらではないみたいですね。本当に遥香さんのところに行きたがっているのかもしれない」
「じゃあ」
遥香は声を弾ませた。
「段ボールを用意します。もし、遥香さんの手に持て余したら、もう一度うちに連絡をください。私たちが責任もって引き取ります」
遥香は大きくうなずいた。
「良かったね。お姉ちゃん」
「うん」
遥香と拓海は笑いあった。
「拓海! お姉ちゃんは子猫を引き取ってくれるんだよ。ありがとう、を言わないといけないの」
美代子がそう諭す。
「いえいえ、私は本当に……」
そう言いかけたとき、美代子のスマホが鳴った。
「すみません。夫からみたいです」
美代子の顔がこわばる。遥香と拓海も笑顔から真顔に変わる。
「うん、うん、うん。あ、なぁんだ」
美代子の表情がほどけていくのが分かる。
「ありがとう。じゃあね」
美代子のスマホの画面が暗くなった。
「美代子さん、どうでしたか?」
遥香は固唾をのんだ
「ええ。実はあのお皿、少し前に鑑定してもらったそうなんです。それで偽物だってことが分かったらしくて」
「偽物。それは……」
良かったですね、とはとても言えなかった。美代子も微妙な表情を浮かべている。
「不幸中の幸いでした。でもね、拓海。あなた今ちょっと喜んでるみたいだけど、全然よくはないからね。お父さんたちは、あなたの亡くなったおじいちゃんもずっとあのお皿があった中で生活してきたの。それが無くなるってことはすごく寂しいことなんだよ」
空っぽの木製の皿立てが床の間に置き去りにされている。お正月、お盆、お彼岸、家族や親せきが集まる場所をずっと見守ってきたのだろう。
「遥香さん、ありがとうございました。こういう結果になりましたけど、拓海は嘘をついたままにならず、他の人のことを疑うこともしなくてすみました。これで良かったんだと思います」
「いえ、そんな……」
「もし将来探偵になられるのなら、向いておられると思いますよ。あなたは」
美代子は微笑んだ。遥香も微笑みを返す。
「段ボール用意しますね。少しお待ちください」
遥香が選んだ黒猫がこちらをじっと見ている。遥香も猫を見返す。でも、猫はすぐにぷいっとそっぽを向いた。
遥香は笑った。そしてこう心でつぶやく。分かってる。だから私はあなたを選んだんだよ。
遥香は段ボールを両手で持ったまま河川敷を歩いていた。バッグを肩にかけたままだと少し歩きづらい。向こう岸の鉄橋に夕日がかかっている。川波に落ちかけた光が反射して少しまぶしい。
「この子、女の子みたいです。私がいうのも何ですけど、かわいがってあげてくださいね」
美代子は最後にそう言ってくれた。拓海は少しさみしそうだった。
今まで三匹のうちの一匹だったこの子猫が拓海の中で少し特別になったからかもしれない、と遥香は思う。遥香が選んだ一匹として。もう会えなくなる一匹として。それは生き物と物との大きな違いこそあれ、あの割れたお皿と一緒だ。今まで当然いたもの、あったものがなくなる、いなくなる。
遥香の両手の間には産毛のままの小さないのちが抱かれている。ぼろぼろの毛布が敷かれた上にぐっすりと眠っている。環境ががらりと変わろうとしているのにふてぶてしい。遥香はそういうところも嫌いじゃなかった。
玄関の門の前についた。春の夜風が冷たい。遠くからでも台所の電気がついているのが分かる。
「さあ、あなたのことをどう紹介しようか。あの堅物に」
遥香はまだ眠りこけている黒猫の背中をなでた。