依頼人は幽霊
「お嬢様、ご依頼が入っています」
遥香はその声を無視した。なにしろ、彼女は朝食のパンを食べている最中だったし、起きぬけから仕事の話をしてくるこの男性の助手に嫌気がさしたからだ。しかも今日はすこぶる寝起きの状態が悪い。
「お嬢様、ご依頼が入っています」
助手はもう一度繰り返した。遥香はちらっと助手の方を見た。鼻筋が通っていて、目は切れ長、高身長、さらさらとした黒髪で足も長い。たしかに美しい。だが、日々恋愛とはほど遠い関係で接し続けていると、逆にそれが嫌味に思えてくるものだ。
「お嬢様、聞こえておられませんか?」
「聞こえてるよ!」
そう怒鳴る。上司の機嫌が悪いのも分からず、最悪のタイミングで何度も声をかけてくる。まったく、気の利かない助手をもつと苦労する。
遥香はそう思いながら、スクランブルエッグに手を伸ばした。おいしい。これがあるからこの助手を切れないのだ。いつものように、隠し味にマヨネーズを使っているのだろう。このふわふわさ加減、鼻に抜けていく風味、そして皿に置かれた分量。何をとっても申し分ない。
「奏多」
いくぶん機嫌のなおった遥香はようやく助手の名を呼んだ。ナプキンで口の周りを拭く。
「ご飯が終わってから話を聞くからココアを用意して」
「すでに準備はできております」
まったく、本業以外のことならすこぶる手際がいい。
「それで」
遥香は書斎の所長室の椅子に座ってしまうと、奏多をうながした。
「依頼っていうのはどういう依頼」
「六年前に受けたプロポーズの返事をしたい」
「はい。解散」
遥香はおもむろに立ち上がった。奏多は慌ててそれを押しとどめる。
「お嬢様、まだ碌に話も聞かないうちから、そんな言い方をなさらなくても」
「だって、バカバカしくって仕方ないんだもん。自分はもう亡くなっているわけじゃん。それなのにプロポーズを受けるも受けないもないでしょ」
遥香は一蹴した。奏多が遥香の裾を引っ張るようにして書斎を出て行こうとしているのを止めた。
「ちょっと、やめてよ。この服、先週買ったばかりなんだから」
「離しません。私たちは亡くなっている方々のご依頼を受けて、お仕事をしているわけですから」
天道寺遥香は探偵だった。だが、ただの探偵ではない。世界で唯一の幽霊専門の諮問探偵なのだ。この世に未練の残っている、いわゆる幽霊の依頼を受けて、彼女曰く「少しばかりの」謝礼をいただく。彼女なりの「善意」の対価として。
その助手の進藤奏多は遥香の祖母の代から仕える探偵助手だ。若干十五歳にして、遥香の祖母、天道寺浅葱の助手となり、彼女が亡くなってからはその孫娘の遥香に仕え、もう少しで十九歳を迎えるという今日まで、さまざまなトラブルを解決してきた。彼自身、この仕事に誇りをもってやっていたし、浅葱にもまるで自分の孫かのようによくしてもらっていたから、この探偵事務所にも強い愛着がある。だが……。
「そんな依頼、断ってきなさい!」
遥香はそう言い放つ。奏多は毎度のことながらうんざりした。この若く、新しい所長には少々手を焼きつつある。たしかに彼女の代になってから、天道寺探偵事務所の経営状態は劇的に改善した。だが、彼女から頻繁に透けてみえる底意地の悪さにこの事務所を辞めてしまおうかと考えることもしばしばだ。
それでも、先代の所長である浅葱に遥香の後事を託されたこともあり、仕事のアシストから身辺の世話まで、我慢しいしい行っているのが現状である。朝五時に起床し、三キロメートル離れた安アパートから自転車を駆けまわして、先代所長の孫娘のためにこの大邸宅で朝食を作ることも厭わない。ただ、遥香から受ける要求の数々にストレスを感じることもあり、食後に胃薬を毎食二錠ずつ服用するようにしていた。
「お嬢様、美音様のお尊父は銀行の副頭取でいらっしゃいます」
奏多はそれだけを言った。遥香の体がぴくっ、と動く。
「日本各地に複数のビルを持つ資産家でもあられるとか」
「……まぁ、話くらいは聞いてもいいかな」
ようやく乗ってきた。奏多はほくそ笑む。この上司に対抗するためにはこちらもそれなりに意地悪くならなければならない。
「承知しました。それではいつ美音様とお話をされますか?」
「とりあえず話を聞くだけでしょ? 朝食後で大丈夫だよ」
奏多はあきれた。さっきの態度とえらい違いである。
「ちなみに妹さんは私たちと同じ大学の同級生です」
遥香が刺すようににらんだ。奏多が少し後ずさりする。
「あなた、もしかして感情でこの仕事受けてないよね?」
「滅相もない」
襟元に汗がにじんだ。遥香は不承不承にうなずく。
「しかも、同じ学部、同じ学科の。」
「……誰?」
「長澤加恋さんです」
「長澤加恋……」
遥香は記憶の糸を奥底からたどっているようだった。奏多は棒立ちになったままそれが終わるのをじっと待った。
「ああ、あのいかにも暗そうな子!」
「お嬢様、言い方には気をつけていただいて」
奏多はやんわりとたしなめた。だが、遥香は気にも留めない様子で続ける。
「この依頼、受けないとだめかな?」
遥香は甘えた声で言う。瞳が少し潤んでいる。性格の悪さに隠されてしまいがちだが、一般的に見れば遥香は十分美人の部類に入る。大きな瞳、すっとひかれた切れ長の眉、豊かな唇。そしてゆったりと伸びた長く白い足。
「ねぇ、受けないとだ……め?」
奏多はようやく我に返った。首をぶんぶん横に振りながら、叱責する。
「お嬢様、仕事ですよ。仕事! その手には乗りませんからね!」
「あともう少しで乗りそうだったくせに」
遥香は意地悪く笑った。それもつかの間、一瞬で真顔になる。
「やってもいいけど、覚悟しときなさいよ。きっと面倒くさいことになる」
「はい! 分かりました」
ようやくやる気になってくれた遥香に、奏多はつとめて素晴らしい返事をしたが、彼が遥香の言った本当の意味を知るのはもう少し後のことになる。