初夜
夜も更けた頃、玄関にあたるドアがノックされた。ようやく待ち人が来たのだという気持ちになり、私は躊躇なく扉を開けた。
随分、月日が経っていた。遅かったなと思っていた。
そこに立っていたのは、夏にしては厚めのジーンズジャンパーを羽織った若い男だった。
相手は、応対する人間に会えた安堵を顔中に浮かべ、おずおずと話しかけてきた。
「あの…、この辺りにペンションか、民宿か、今夜一泊出来そうな場所ってありませんか?」
発せられた言葉に拍子抜けし、私は抑揚のない声で応じた。
「どうされました?」
「道に迷ってしまって…。バイクで旅行中なんですが、山越えで街に出ようとしたら、どんどん山道に入ってしまって…。民家もしばらくなかったから、こちらを見つけて本当にホッとしました。ラブホテルでもいいです、一番近い泊まれそうな所ってどちらになりますか?」
「ここら一帯、麓に降りるまで人は住んでいないんですよ。…ここも、もともと別荘みたいなもので…」
大学生くらいに見える青年は心底困った表情でうつむき考え込んだ。
「麓…。山に入って4時間は走っていたんですよね…。無事に降りられるかな…」
「これ以上先に進んでも、道はどこにも通じていません。それに暗いので山の中を動くのは危険だ。」
次に彼に懇願されることは分かっていたが、自分から言い出すのは憚られた。他人との通常的な関わりが苦痛以外の何物でもなかったからだ。ただ、彼にほど近い年齢に見える青年に、多少懐かしさを感じたのも確かだった。
「あの…、本当に不躾なお願いなのですが…。お家のどこでも構いませんから、屋根の下で一晩眠らせてもらえませんか?野宿の用意をしていなくて…。」迷ったが、彼を家の中に入れることにした。
「ありがとうございます!」
青年は嬉しそうに礼を言った。
折悪しく、その日の夕食の品が半ばダイニングのテーブルに残っていた。彼はそれを見ると、分かりやすく腹を鳴らした。
「…食事は未だでしたか?」
しぶしぶ私は聞いてみる。恥ずかしそうな表情で彼はゆっくり頷いた。
どうしよう?この品をこの青年に食べさせる?
別のものを用意するにしても、缶詰とパックの米のような保存食になる。不自然に思うだろうなと思った。
しかし、私の大切なものを、このような行きずりの人間に食べさせる気には到底なれない。
私は、無言でテーブルの上の料理を片付け、代わりに保存食を使って簡易などんぶり飯を作り、青年に提供した。
「こんなものでよかったら、どうぞ。」
「すみません!本当にありがとうございます!」
青年は遠慮せず、食事を平らげた。久しぶりに、人がものを食べる様を眺めていると、思い出が蘇りそうになり、慌てて軽く頭を振った。
「どうかされましたか?」
そんな私の様子を見て、おずおずと青年が尋ねた。
「いえ…何でもありません。お休みになる場所はそこのソファでも良いですか?ブランケットはお持ちしましょう。」
重ね重ねありがとうございますと頭を下げ、青年は私が促したソファに移った。
私は、すぐに寝室にしている部屋に行き、念のために鍵をかけ、ベッドに入った。
夜中に、ダイニングの方で大きなものが倒れる音が聞こえた時、私はまだ寝入る前だった。
招かれざる客が何か、家具でも倒したのかと思った。面倒に思いながらも、そっと寝室を出て、ダイニングを伺いに行った。
見れば、ソファの上に青年の姿はなかった。
用心しながら、そこらを見渡すと、キッチンに備え付けた冷蔵庫が開いて、中の光が漏れていた。近づいてみると、青年がその近くに倒れていた。口から白い泡を吹いている。
唇の端から、噛みちぎった肉片が覗いていた。
何が起こったのか、しばらく理解できなかった。
青年は、空腹のためか冷蔵庫を漁ったのだろうことは推測できるが、何故、青年が倒れているのか分からない。
震える手で口元を押さえながら、私は青年に近づいた。
彼の鼻元に指をかざしたが、息は感じられない。首の動脈を押さえてみたが、脈は確認できなかった。まるで、あの日の彼のように、青年は横たわっていた。
(何故?)
彼が口にしていたのは、『彼』だった。私が毎日、少しずつ取り込んでいる彼そのもの。
何故、同じような症状でこの青年はここに横たわっているのか。
あの時も、シアン化物による中毒のような速さで彼は死んでしまった。ただ、その後、原因とおぼしき薬草を食べても私は死ねなかった。ましてや、彼を食べ続けている私は変わりなくここにいる。
───その後、思ったより冷静に、私は青年を地下のシェルター内の片隅に引きずっていった。今回も通報するような考えは浮かばなかった。誰か青年を見つけにきて、ここを探り当てるのならばそれはそれでよいという気分だった。ずっと前からそうだったように。
またしても。
2日経っても7日経っても、今度も誰も来なかった。今までどおりの静寂が戻り、私はこれまでどおり、ここで静かに暮らし続けることになった。