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日没

「学校を辞めたの、俺のせい?…先生…」

 低く籠もった声を絞り出すように彼は言った。

「───違う…って、言ってあげたかったけれど…」

 私はうつむいて呟くように言うのが精一杯だった。

 二人だけで過ごした場所に、今、二人でいた。彼の姿を見た瞬間、痛いような幸福感が私を包みすぐに消えていった。

「これからどうするの?」

 彼は私に聞いた。

 どうする──?

 そんなことは何も考えていなかった。ただ逃げ出して、どこかでうずくまりたかっただけだった。

「ごめん…なんて、言える立場じゃないけれど…。でも、俺は先生にも幸せになって欲しい。これだけは嘘じゃない。」

“先生にも”か。もう私でなくとも幸せになれる相手を見つけたということだ。

 一年前に、君が言った言葉は嘘になった。

『私といるときだけ、幸せな気持ちになれる』という言葉。

 私にとっては今も真実だ。

「彼女は、他の女と違ったんだ。出会った時から一緒にいることに違和感がなかった。つき合い始めて5ヶ月経った今もまったく違和感はない。始めから家族だったみたいな感覚なんだ。」

 彼が何を言っているのか、分かりたくなかった。

 胸の真ん中が苦しい。

 この場所で、山菜を採った後、ウッドデッキで二人向かい合って飲んだコーヒー。君は、少し照れた様子で柔らかに微笑っていた。コーヒーの湯気が昼下がりの木漏れ日に反射してキラキラしていた。あの時、君が私に言ってくれた言葉が、私の中でグルグルと回り続けていた。

「俺も、普通に幸せになっていいんだって、自然に受け入れられたんだよ。」

 彼のその言葉をきっかけに苦しさが増した気がして、その苦しさを止めたくて、私は衝動的に彼を抱きしめようとした。しかし、彼は私を押し退けた。ぎょっとした表情で。

「…ごめん、先生…。」

 彼はすぐに謝った。何に対する謝罪だったのか。彼から彼自身によって引き剥がされた私は、よろよろと後ずさった。

 オープンキッチンの調理台と向かい合わせにしつらえられたカウンターに腰がぶつかる。台の上には、今日採ってきた野草──数種のキノコや木の実──が乗っている。また、そのうちのいくつかを、何の当てもなくすり鉢ですりつぶしたり、酢や食塩水に浸したりしているところだった。包丁もあった。

 右手で包丁の柄を握った私は、当たり前のようにそれで自分のみぞおち辺りを突いた。苦しい場所を抉り取りたかったのだと思う。

 激痛に見舞われ、私はすぐに床に崩れ落ちた。包丁を引き抜いて、左手で傷口の辺りを探った。服の裂け目からみるみるうちに血があふれ、指の間から滴った。

「先生!」

 目を見開いた彼が私に駆け寄り、包丁をもぎ取ろうとした。

 彼に右手首を骨が砕かれるかという力で締め上げられ、私が激痛に思わず腕を振り回した際に、包丁の刃先が彼の手の平をかすめたようだった。

 彼の手首に赤い線が数条流れ出たことに気づき、私は握りしめたこぶしの力が抜けていった。

 私が凶器を手放したことを確認した彼は、無言のまま肩で荒い息をして、傷ついた手をカウンターに着いたが、そこには私が散らかしていた野草と、それをすり潰していた乳鉢があった。

「ッ痛!!」

 彼の低い悲鳴を、私はうつむいた頭上辺りでぼんやり聞いていた。

「──先生!」

 尖った彼の声が私に浴びせられた。

「どうしてそういう結論出すんだよ! それは卑怯だよ!」

 私は、彼を見上げることは出来なかった。自分でも自分が下らない情けない人間だと分かっていた。ずっと、私は変わらない。そして、それをどうすることも出来なかった。

 無言の重みが長くダイニングに立ちこめていた。

 しかし、ふいにガタンと、物が落ちるような音が響いた。

 私が恐る恐る彼の方を向くと、彼が虚ろな表情で床に横たわっていた。口角からは白い泡が垂れ流れている。

「───!!」

 私は声も出ず、彼の近くに這い寄って彼を抱き起こした。

 久しぶりに触れる彼の体。私にもたれかかる彼の頭。彼は、焦点の合わない瞳を天井に彷徨わせながら、最期に小さく唇をわななかせた。何かを呟いたようにも見えた。人の名前を呼んだようにも思えたが、少なくとも私の名前ではなかった。

 

 何故だろう?私は救急車を呼ぼうとか、警察を呼ぼうとか、まったく思いつかなかった。

 その後、私は、窓から覗いていた昼下がりの空がそのうちほの赤くなり、だんだんと夕闇に染まっていくのを、何も言わなくなった彼のからだを抱えながらぼんやり感じていた。

 闇が部屋中にも広がったとき、ようやく私は彼をそっと床に置き立ち上がった。

 キッチンカウンターを見ると、乳鉢が転がり暗い緑がかった液体が台のそこら中に飛び散っていた。彼の手の跡だろうか、野草と液体の中に掌紋が一カ所、シミのように刻まれている。

 私は躊躇なく、そこに散らばったすべてを両手でかき集め口に入れた。腹部の鈍い痛みは続いていたが、出血はもう服の上からにじむ程度になっていた。押し込んだものを無我夢中で咀嚼し飲み込んだ。青臭い味がした。彼が正面に見える位置に座り、私は膝を抱えた。彼の姿を見ながら逝けると思うと、久しぶりの平穏が心中に広がった。


 ………しかし、私の体には何の変化も起こらなかった。何時間経っても、翌日になっても。


 次の日は自然と腹が減った。排泄の欲求もあり、用も足した。

 昨日と同じく、彼は床に仰向けに横たわっていたが、それがむしろ普通の状態のようにも思えていた。

 その時がきたら、私を捕らえに人がここに来るだろう。その時まで彼と一緒にここに居れるのだ。一年前と全く一緒ではないけれど、彼と同じ場所に居る今は満ち足りていた。


───しかし、1ヶ月経っても3ヶ月経っても、誰もここを訪れることはなかった。

 不思議なことに、彼の姿もまったく変わることなくここにあった。

 床にいつまでも居させることも悪い気がして、彼が気に入っていたロッキングチェアに座らせてみたら、案外関節は滑らかに曲がってすんなりと収まった。さすがに、マネキンのようなぎこちなさではあったが。それでも、揺り椅子で小首を傾げて微睡む人のように、彼を飾りつけることが出来た。


 その後、半年ほど経ったか、テレビはなくラジオのスイッチを入れる気もしなかったし、携帯電話の電池はもとより切れていて、正確な日付は分からなかったが、肌寒かった気温が完全に冬のそれになっていたからそう思った時期に、ようやく彼の体の異変が始まった。

 毎日、軽く触れていた彼の指先がポキリという感じで折れて落ちたのだ。

 あれ以来、初めて私は動揺した。

 また彼を失ってしまう。

 私はあの時から、山荘に保存されていた食材と近くで採れた山草を使って料理を作っていた。ただ、日に一度食べ物を口にすればよい程度の食事回数になっていた。

 今、床に落ちた彼の指を見て、失せ果てたと思っていた欲が急激に湧くのを感じた。

 彼と一緒にいたかった。同体となってずっと一緒に。

 欲望に抗わず行動を起こすことにした私は、まず、あまり、彼の姿を損なわない部位から取り込もうと考え、服に隠れた場所を探った。太ももから始めることにして、ズボンのベルトを緩め、丁寧に彼の腰から抜き取った。青白い内腿が見えたとき、少なからぬ動揺を感じた。何度見ても感じた衝動。私は堪らず冷たい肌に頬ずりした。


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